記憶の集積

「長崎ビフォーアフター写真展」もいよいよあさってまでとなりました。一ヶ月経つのは早いもんです。いつも言ってますね(笑)。もうあと3週間で今年も終わりですよ、ほんとに。長崎の街も、やっと寒さが冬らしくなりました。
このあいだ誰かが言ってたんですが、私たちは今の時間をリアルタイムに生きていると思いがちだけど、じつは過去の記憶の中で今を生きている。…なるほどなあと思いました。過去の記憶を総合して今の自分を成り立たせているというわけです。そう考えると、今現在この瞬間は、それぞれの過去を凝縮したものなんだということ。時間というものは過去から現在を通り過ぎて未来に移っていくような気がしますが、じつは過去の時間の集積によって現在ができあがり、その連続が未来になる。今回の長崎ビフォーアフター写真展の写真を見ながら、そんなことを考えました。かつて自分の目で見た長崎の風景と同じ場所を今の時間軸で切り取っていく。そこには単に時間の経過による姿形の変化ということだけではなくて、記憶の集積がまさにそこに立ち上ってくる。時間とは過ぎ去る風景ではなく、記憶の集積なのだということを思うこのごろ。
今年4月に行なったオランダの写真家カリー・マルケリンクさんの写真展と講演会を経験して、写真の新たな地平といったものを考えるようになりました。絵画的な美しさではなく、かといって決定的瞬間のスクープ的な希少価値でもない。写真の風景を記録するという機能を通じて記録から記憶の集積へと昇華していくことで、人がそれぞれの土地で生きていくということの意味をふたたび問い直しているのではないかと思いました。原発事故によって住む土地を追われた多くの人たちが、危険を承知でふるさとの様子を見に行く姿は、人間にとって生まれた土地に根を張って生きていくことの意味の大きさを思わざるをえません。「どこさもいがねえ」老人がぽつりとつぶやく。このひと言の重みを都会に住む人間では感じることはできなくなったのかもしれません。
昨日はお店を少し早じまいさせてもらって、長崎大学で開催された内田樹氏の講演会へ行ってきました。ほんとに素晴らしいお話でした。一言一句無駄のない話に、ずっとうなずいていました。311以降、これから日本が歩むべき指標を明確に論じられました。しかし残念ながら現実の日本はその方向への舵取りは不可能でしょう。日本は廃県置藩して鎖国をするぐらいのレンジで軌道修正しなければ、どうにも変わらないしブレイクスルーはできない。私もまったくそのとおりのことを考えていました。ここでもときどき話しますが、日本がおかしくなったのは開国して明治政府をつくったところからです。そしてそれは日本人の考えではなく西欧列強の圧力によって否が応でもしなくてはならなかった植民地政策であり、今まさにできあがろうとしているグローバル化の出発点でもあります。しかし今度は世界中の金融政策が立ち行かなくなってきた。EUがいよいよ崩壊しはじめ、世界各地でクーデターが起こり、すでに疲弊しきっている日本が取り残され、ますます物資の生産拠点が中国、東南アジア、インドに集中しているのは、新しい植民地支配の形なのかもしれません。ほんの一部のマネーゲームのプレーヤーを除けば、みんな苦しく、とても豊かさなどが見込める未来ではありません。私たちは単なる支配者のための歴史の捨て駒として終っていいものかどうか、私たち一般市民にブレイクスルーのチャンスは与えられないのか、あらためて考えさせられるお話でした。