トークセッションへ是非!


連日お知らせしております写真家カリー・マルケリンク氏と山本正興氏のトークセッションは、いよいよ二日後となりました。長崎市内はもちろん佐世保からも、そして大分県など県外からのお申し込みもいただき、たいへん感謝しております。ある程度の人数は把握できましたし、今回は特にできるだけ多くの方に聞いていただきたいお話なので、これからは予約なしでも入場を受け付けたいと思います。諸用で来れなかったんだけど急に来れるようになったという方、予約なしでも大丈夫です。是非おこしください。とくにこの日は佐世保市内でアースデイ佐世保2011が開催されており、そちらに参加してから間に合うかどうかという方も多くいらっしゃいます。途中からでも入場可能ですので、是非いらしてください。お待ちしてます!

 
 
 

 
自分にとっての敵が想定されると、多くの人はその敵を倒そうと果敢に挑んだり、もしくは徹底的に逃げる人もいます。もちろんそのどちらかが正しいとか間違いとかは言えません。それは生きていくための本能的なものかもしれません。それは野生の動物たちの世界とひとつも変わりません。親は子どもを守り、命をつなぎ、種を未来につなげようとします。人間も動物も生きていくための知恵として、目の前に敵が現れたならば、立ち向かうか逃げるのかを判断し行動します。また人間はとくに自分の内側にわきおこるさまざまな感情をコントロールしながら、幸せを求めて日々の暮らしを営んでいます。そうした生活の中で、とてもわかりやすい敵が想定されると、多くの人がその敵を倒すために躍起になる。それはむしろ動物としての自然な感情なのかもしれません。
今回の原発事故で、ほんとうに多くの人が悲しみ苦しんでいます。生活の基盤を失い、見えない放射線の影響におののき、見知らぬ土地に避難して、これからどうやって生きていけばいいのか、まったく何の道筋も示されることのない現状。それは物理的な被害以上に、人間が生きていく上での精神的な支えを根こそぎ奪い取る事態でもあります。こうした思いがけない不幸にみまわれてしまった人にとっては、とにかく「敵」をみつけなければいけない。誰かにこの不条理な現実を訴えないことには、いてもたってもいられない人もいるし、もはや未来に何の希望も見出せないままの方たちも多いと思います。また直接的な被害をうけなかった地域の人にとっても、大きな問題をなげかけていますし、目に見えない被害は日本全国に広がっています。
当面、直接的な加害者というのは原子力発電所にかかわる経営陣であったり、原発推進をおこなってきた政府であり、そこから選び出されてきた原子力開発にかかわってきた学者やいわゆる有識者と呼ばれる人たちでしょう。社会の中で、いったん「敵」というレッテルを貼られると、それはどうしようもなく「敵」であり、敵側にとってはもはやどんな弁解も成り立ちません。ただはたして想定された「敵」に戦いを挑むことで問題が解決できるかと言うと、そうではありません。今はそんなふうにしかならないというだけのことです。原発反対のデモをする。電力会社の責任を迫る。政府の対応を批判する。都合の悪い報道をしないマスコミの批判をする。こうしたとても表面的な事態の対応が何を意味するのかを、もう少し考えなければならないと思います。
日本で原発がなぜ推進されなければならなかったのか。世界中が原子力エネルギーを縮小化、または撤廃に動いてきたなかで、どうして日本は急速に原子力発電所を乱立させ、外国の核廃棄物の処理まで請け負うことになったのか。そしてその充分な処理能力はもちろん、今後の処理方法さえ決められないまま、さらに核施設を増やそうとしているこの国の方針に、当の国民が無関心であり続けたのはなぜだったのか。国がそうしたのか、あるいは国はそうさせられたのか。そうした膨大なリスクをかかえたにもかかわらず、その発電による利益のかなりの部分が外国の株主に吸い取られているというシステムに、日本は国としてどうすることもできないのか…などと考えていくと、はたして本当の「敵」は誰なのかということを、もうすこし一般市民も考えていいのではと思います。しかし、基本的に一般市民としてはどうしようもない世界経済のシステムなわけです。昔から一般市民は踊らされる立場でしかありませんでした。今でもそうです。表向き民主主義を謳っている日本では、そうしたシステムに変化をもたらすことができるのは政治家の役回りではあります。しかし実際の政治家が何をやっているのかは、みなよく知っています。もはやこうした大きな問題の解決に政治家を頼みにしてはいません。そしてそれさえ織り込み済みの世界経済のシステムです。
もう何百年ものあいだ、世界中のエネルギー資源を操作し、通貨を誘導し、戦争や内紛を誘発させながら武器を売りさばき、世界を思いのままに操っている輩に対して、私たちは何もあらがうことなどできはしません。ただ私たちはそんなことよりも、もっともっと大切なものを分かち合いながら、幸せを享受しあう術を知っています。世界経済を相手にしている暇などありません。子どもを守り育て、命をつないでいくことの尊さと幸せを感じながら生きていく。ただ私たちはそうした私たちの幸せさえ奪い取るものが誰なのかを知っておくべきだと思いますし、つまり「敵」が誰なのかをはっきりさせることが必要な時代になったのかも知れません。かつてガンディやマンデラマザーテレサさえできなかったことを、一部の市民がプラカードを掲げてまちを行進することでできるでしょうか。目に見えない敵に戦いを挑むより、私たちのほんとうの幸せが何であるのかを身をもって表現することが、私たちができることだと思うのです。
一人の人間の一生は短い。ほんとうにそう思います。それも必ずしも人生を全うできるとは限らない。一見平和に見えるこの日本でさえ明日自分の家族がどうなるのかわからない。もし人生が500年ぐらいあるのであれば、こんなどうしようもない世界もどうにかなったのかもしれません。しかしこの短い人生の中で、自分が生まれてきたことの理由がわかるような瞬間に出会えることを夢見ながら、明日もどうか生きていけますようにと願う毎日です。人間は、おそらく何百年か前に道筋をまちがったのだと思います。途中、その間違いに警鐘を鳴らす人が出て、正しい方向へ導こうともしました。でもいまだに世界は偏った方向へと支配されています。その歪みがいろんなところに現れていて、だから私たちはその歪みを「敵」と勘違いさせられているのだと思います。私たちはどう生きていくのかということを見失わないようにしなければなりません。たとえばそれが大きな力に立ち向かうことなのか、それとも全く違うフィールドの生き方を全うしていくのか、それぞれの人生に対する意志を、そして現実を見つめていかなければならないと思います。 
芸術は権力やお金に対して無力です。そして文化はお金があってのものです。しかし何ものにも左右されない真実を見据える眼力があります。ごまかしようのない真実への視点があるのです。私たちは芸術によって喜怒哀楽を共有し、何が大切なことなのかを再認識します。それが絵画であったり彫刻であったり、音楽であったり演劇であったり、写真や映画であったり文学であったりします。だれかがつくったものが芸術ではありません、それを人が見たり聴いたり感じたりする瞬間に生まれます。今回展示するカリー・マルケリンク氏の写真も、その作品を人が見て何かを感じる瞬間が芸術として成立します。人間は何をしてきたのか。そのことを写真によって見るものに訴えます。しかしそれは単なる社会批判ではありません。人間が歴史に刻んできた奥深い悲しみを表現しようと、見せてくれようとしています。少なくとも私にはそういうふうに見えます。誰しも作品をどのように感じるかは自由です。優れた作品を見ることで、自分が何をどう感じることができるのか、ぜひ見ていただきたいと思います。
今回カリー・マルケリンク氏の作品を見て私が感じたことのひとつに、写真以外の何ものにも代え難い、つまり写真にしかできない表現があることを痛感しました。趣味で絵を描いたりしている人に多いのですが、写真を芸術としてすこし一段下に見下している人がいます。それは大きな間違いです。確かに絵画や彫刻に比べると、その歴史は格段に浅いかもしれません。しかし今のこの世界に写真というテクノロジー、もしくは映像というメディアがどのように関わっているかを考えれば、おのずとその重要性は明らかでしょう。時間はいつも同じはやさで過ぎ去るものではありません。千年前の1時間と今の1時間の意味はあきらかに違います。私たちは善し悪しは別にして今というスパンの時間の中で生きています。この目まぐるしい時間の流れの中で生きていくしかありません。写真や映像はそうした今の時間に対応した表現メディアであることを考えれば、芸術性の優劣がメディアの種類に関係するものかどうかは明らかです。むしろ近代絵画の手法が現代社会にどれだけの意味を持ちえるのかの方が怪しいと言っていいでしょう。
今回のカリー・マルケリンク写真展とトークセッションを機会に、芸術作品としての写真というものの可能性や、今後の社会の見方や在り方を模索していくきっかけになっていただければ嬉しいです。