時間について

あっという間に朝が来て、あっという間に夜になり、また朝が来ます。そのあいだに同じようなことを繰り返して、ふと気がつくと、体力がない(笑)。若い頃はこともなげにできていたことが「どっこいしょ」と言わなければできなくなる。若い頃は一日が長かった。今は日に日に短くなる。時間というのは歳をとると短くなるというのが実感です。これは気のせいではなくて、時間の真実だと思います。いつでもフラットに均等に刻まれる時計の時間とは、単にひとつの解釈であって、人間にとっての時間は決してフラットではないし、おおむね加速していくものだと思います。どんどん加速していって死というゴールを迎える。さて、自分はそんな時間のなかで何をしたのだろう。これからの死へ向かう時間のなかで何ができるのだろう。そんなことをずっと考えながら、同時に今やらなくちゃいけないことに追われながら生きているって感じです。若い頃は、やろうと思えば何でもできるし、何度でもやり直しができると思っていた。未来は無限に広がっていた。今は、実際にやることができた分だけが自分なのだと思い知らされる。どちらかといえば、やりたいことは無理にでもやってきたように思う。もちろん自分がやって来たのではなくて、多くの人に助けられながらやらせてもらってきたし、今もこれからもそれでしかないように思う。だからそれほど悔やむこともないのだけれど、それで自分は何かの役に立ったのだろうかなどと考え出すと、それはまた悩ましいところではあります。誰しも例外なく死に向かって走り続けているのだから、そしてきっと何かの理由があって生まれてきたのだろうから、この先できることなら正直に生きていければと思います。2010年が終わろうとしています。世界はいまだにたいへんな状態が続いています。独裁者が民族を虐殺しています。貧困による略奪を止められません。民主主義は富裕層の搾取のためのきれいごとでしかありません。庶民はいつの時代も利用される力ない存在です。かといって独裁者や富裕層が幸せなのかどうかは別の問題です。利用され搾取される庶民がみんな不幸かといえば、そうとも限りません。ただ、人間はやはりどこかでたいへんな間違いを犯したまま走り続けているのだろうと思います。どうかみんなが幸せでありますように。そんな庶民のささやかな願いが実現するのは、もっともっとたいへんな時間がかかるのだろうなと思います。しかし、今生きているうちに、幸せを共有できる人たちがいることの幸せを大切にしたいとも思います。他人を理解しようったって、そうそう簡単ではありません。理解しえないからこそ、それぞれを受け入れる努力はしなければなりません。家族や隣近所や友人や仕事仲間や、まちの人たちや、この国の人たちや、違う国の人たちも。理解しようなんてきれいごとです。でも理解しえないのはお互い様で、そのうえで認めることから、何か新しい関係ができるのだと思うのです。なんだかごくあたりまえのことなのですが、意外と、自分に合わないとか、あいつは間違っているとか、そんなことで他人を不幸にしたり、自分が不幸になったり、そんなことの繰り返しじゃないかなって。楽しい時間、幸せな時間を共有すること。共有できていると感じることの幸せ。これからは、そんなことに時間を使っていけるといいなと思います。
先頃話題になったウィキリークスが流した3年前の映像です。かなりショッキングですので、それぞれの判断でご覧ください。

そして、ウィキリークスが何をやろうとしているのかを、彼ら自身が語っています。7つに分けてアップされています。

ということで、今日は定休日なので、カフェとは関係のない話をしましたが、いつものヨタ話ではありません。あいかわらず改行しなくてごめんね(笑)。