今日は定休日。

昨日と今日の月曜火曜はカフェ豆は定休日です。
明日水曜日からは通常営業です。ライブの予約も電話で受付中です。よろしくです。

今週も珍来ラジオに行けそうにありません…
 

雲仙焼 石川ハミ 作陶展
浜屋デパート 8階ギャラリー(長崎市浜町)
10月19日(火)〜24日(日) 
〈ごあいさつ〉
「窯焚きは五体を割って心焼く」17年忌を終えた先代の句です。
土を捏ね、ロクロをまわし、火に焼かれて歪んだ器に、
“清らかなもの”が宿るまで…との想いで窯の前に立ちます。
今回も作っては壊しの連続でした。
遠い道のりですが、先人の目指したところをめざして…
ご高覧、ご叱咤いただければ幸いに存じます。
                  石川ハミ



今日から、長崎市浜屋デパート8階ギャラリーにて「雲仙焼 石川ハミ 作陶展」が始まりました。
さきほど拝見してきました。あいかわらず素晴らしかったです。前回と同様、開催前にDMに載せた写真の作品は売約済みでした。ありがたいことです。
 
話は変わって、カフェ豆でも個展をやってくださいました岩永嘉人さんのブログに、長崎県美術館についての興味深い書き込みがありました。まったくそのとおりだと思います。近頃、長崎県美術館でも長崎出身の作家の企画展をやるようになりました。お、美術館もちょっと変わってきたかもと思っていました。それも東松照明さんなどのビッグネームだけでなくて、長崎出身の作家の企画展はこれからも続いていくようです。で、「現代美術の作品は一般享けしないから入場者数が見込めない」という新聞の見解は、岩永さんが指摘するように間違っていると私も思います。というか、これまでのような入場者数の多さをして「どうだすごいだろう」みたいなところが改められたのであれば、それはそれで進歩したのかもしれません。相田みつを展、山下清展、福山雅治写真展…どれもデパートの特設会場に、「◯◯物産展」に使うようなパネルを立ててやるようなものを、わざわざ公立の美術館で開催するという、それはそれは恥ずかしいことをやってきたことを考えれば、大変な進歩だと思います。そしてなおかつ近頃この美術館で開催されている現代美術の展覧会の入場者数はそうとうな数だといえます。個人的に現代美術にそれほど頑張ってほしいとは思っていないし、そんなに一般享けしてほしいとも思わないし、一般享けする方がどうかしているとも思うので、長崎県美術館にはそれこそ入場者数なんか気にせずに、質の高い展覧会を企画していただきたいと思います。
5年ほど前、写真の表彰式かなにかで東京に行った時に、上野の国立西洋美術館にふらりと立ち寄った時がありました。そのときたまたまやっていた企画展が、めちゃめちゃ地味な銅版画の企画展でした。デューラーの素晴らしい銅版画が2・3枚ほどで、あとは聞いたこともないような当時の銅版画ばかりでした。デューラーにはしびれましたが、その他の版画は歴史資料としての価値はあっても、芸術的な価値はどうなんだろうと思うようなものでした。どう考えても主催者の美術館側に一般享けは視野にないようでした。でもとてもきちんとした展覧会でした。そのときの入場者は私を含めて数人。でも、あの会場の凛とした空気に国立西洋美術館の底力を見せられたような気がしました。公立の美術館は、入場者に関係なく、毅然として美術作品を紹介していく役割があるんだとあらためて感じました。となりの美術館では印象派から後期印象派のいわゆる一般享けする展覧会があっていて、美術館のまわりはたいへんな人だかりでした。もちろん私はそんなものを見る気はしません。作品を見るというより烏合の衆に飲み込まれに行くようなものです。今度福岡にゴッホの展覧会が来るそうですが、きっとごったがえすんでしょうね(笑)。
日本人は印象派から後期印象派の絵がなぜか大好きなんですね。それは有名だからというのもあるし、子どもの頃の教科書で見覚えがあって、わかりやすくもあるからかもしれません。当時の学校教育の影響かもしれません。「わかりやすい」って何でしょう。静物画はそこに何が描いてあるかがわかるからわかりやすいと思い込んでいるだけです。印象派あたりの風景画も何が描いてあるかはわかるのですが、なんとなくそれでわかったと思い込んでいる。それから絵画を具象と抽象に分けて考えている人も多いです。絵画とは具象と抽象とその他のわけわからんやつ…みたいな(笑)。それは趣味で絵を描いていて、多少絵のことについて知っているというような人に多いですね。確かに第一次大戦頃から戦後すぐぐらいまでは抽象画の華盛りでした。でもクレーやカンディンスキーの絵画とポロックの絵画はどちらも抽象ですが、まるで意味が違います。抽象画の概念が生まれた当時はともかく、今の時代に抽象画という括りなど何の意味もないのですが、例の「わかりやすさ」の物差しが「具象と抽象」なのかもしれませんね。日本では20世紀前半のヨーロッパの絵画がいまだに人気があるので、そのあたりの展覧会をすれば美術館はいつでも大入り満員で、がっぽり儲かっちゃう(笑)。でも20世紀前半のヨーロッパはあちこちで戦争ばっかりやってたわけで、そのこと抜きに、その作品を語ることはできません。あのころの有名な画家の多くが共産主義者だったり、亡命を繰り返していたり、また画家だけではなく、どちらかといえば詩人を中心にした思想的な影響力がとても大きかったようです。わたしたち日本人には想像もつかない社会の中で生まれてきた作品たちですから、それがリンゴの絵だとか、サーカスの絵だとかいうことがわかったからといって、その絵がわかったことにはならないでしょう。さらに、そうした社会的な状況を理解したからといってわかるようなものでもありません。西洋の近代絵画にせよ、現代美術にせよ、わからないものはわからない。一般享けとはまた別のことなのだと思います。
現代美術を多くの人にわかってもらいたいとか、楽しんでもらいたい、なんていうのはどこか間違っていると個人的には思います。ウソっぽくてバカっぽい(笑)。ただ、現代社会のなかに出るべくして出てくる表現は、きちんと出されるべきだと思います。万人に享ける必要はさらさらないです。作品についてこと細かに説明していかないと誰にもわからないような作品もどうかと思いますが、そんなことより、ある一部の人にでもその作品があることで深い感動を呼ぶものであればいいのだと思います。結果としてそれが現代美術なんだと思います。まただらだら書いてしまいましたが、美術館は一般享けなど見向きもせずに、その作品の質の高さや歴史的な意義をどうやったら伝えることのできる展示にできるかを考えて頑張ってほしいものです。美術館の運営を入場料でまかなおうなんて間違いです。そんなところにこそ税金は使われるべきだと思います。
 
ついでなので書きますが(笑)、長崎には県立の立派な美術館があるのですから、長崎市は同じような美術館を建てる必要はないと思います。昔から長崎市にも美術館を建ててよっていう要望もあるらしいですが、そんな二番煎じに使うお金があるのなら、つまり箱をつくって有名な印象派のバカ高い絵を買うくらいなら、これからのアートシーンがいろめきだつようなシステムの核となるような場所をつくってほしいですね。これからの時代に即した美術を長崎から発信できる機能を持ったシステムをつくるということです。そこに以前ここでお話しした「ナガサキ ピースアート トリエンナーレ」の事務局を置いたり、原爆落下中心地碑の国際コンペを開催したり、それにともなう世界的な音楽イベントもここで企画運営していけるような場所。で、それをみんな市の税金や国の補助金でやろうとするから無理があるわけで、市の事業といえども、これだけの規模でやるのであれば、全国規模のスポンサーだってたくさんつくし、メディアも黙っちゃいないでしょう。そして何かやりたいんだけど何やっていいのかわからないでいる多くの若者がボランティアで参加して、その過程の中で社会との結びつきかたや、ものごとの運び方を学んでいく貴重な機会を得るようになるわけです。それが結果として、これからのまちづくりとなるだろうし、観光振興になるだろうし、長崎市も税金使わずにたいへんな経済効果を得て、なんもかんもよかったよかったとなるわけです(笑)。冗談はさておき、未来に対する視点と覚悟がきちんと定まれば、方法はいくらでもあるし、人の力は集結できると思います。それが市長の言う「市民力」なんだろうと思います。そうした市民の立ち位置をしっかりと示すことのできる行政であれば、既得権益を守っていかに利権を誘導するかばかり考えているような政治家とそのとりまきなんか、どっかへ吹っ飛んでしまうでしょう。
このあいだから「長崎市のまちづくり」について考えなければならない機会が頻繁にあるので、ついこんなことまで書いてしまいました。だらだらすみませんでした(笑)。