「現実」について思い出したこと

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今日のブログは、最初から謝っときます、スミマセン(笑)。長いです。改行もしてません。読まなくてもいいです(笑)。きっと途中で目がチラチラしてきます。そして役に立ったり得したりするような内容でもないです。じゃあなんでそんなこと書くんだと思われるでしょう。きのうこのブログにコメントいただいた彫刻家のシバタさんの一言に刺激されました。そういえば「現実」について昔書いたことがあるなと思って検索したら出てきたわけで…。それもけっこうたくさん出てきたわけで…。この「現実」っていう言葉のもつ意味というものは、とても深くて難解だなあとあらためて思ったわけで…(北の国から)。「現実」…なんといい加減な言葉でしょう。確かに同じ時間と空間を共有している人どうしにとっては、あたかも同じ現実を生きているかのように思えますが、はたしてそうなのかってことは、遠い昔から多くの人の問いかけであったわけで…(北の国から…しつこい)。たとえばシバタさんが粘土の塊を前に何らかのかたちを生み出そうと格闘している彼女の時間は、日常生活から遠くはなれた感覚の中でもがいているわけで、それが塑像としてかたちをなしてきたとき、すでに一般的な「現実」とはまったく違ったもうひとつの「現実」を生きているわけです。いわば彼女はふたつの現実を生きているといってもいいのではないか。それが三つ四つとなることもある。それは一人の人間が世界とどのようにつながっているのかということではないかと思うわけです。世界といろんなつながり方が可能です。多くの人が、ごく一般的な生活の場として世界とつながっている。でもシバタさんのように一般的な生活とは違ったつながりかたをしている人もいるように、それはみんなそれぞれのつながり方を持っているわけだし、ひとりにひとつずつっていうわけでもない。世界は一つ人類はみな兄弟なんていいますが、とんでもない(笑)。人の数だけ、いやそれ以上の数の世界があるわけです。みんなそれぞれに違った世界とのつながり方をしているし、みんなそれぞれに違った世界が見えているわけです。でもそこで、ときどきそのつながりに接点がでてくる。さらに多くその接点を持とうとしている。でもそれはなかなか難しくて、ときには殺しあいになったりする。戦争になったりもする。というかしやすい。でも逆にすばらしいつながりも出てくる。世界の数からすれば、それはほんのわずかなつながりかもしれないけど、それは人が生きていくなかで、とても大切なことなんじゃないかと思うわけで…す。
で、昔書いた文章で、こんなのがありました。今から6年前、まだブログなんてなかったので、ネットの掲示板にこんなことを書いてました。
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まっすぐにものを見るということ   2004年9月21日

きっと、今の世の中は、まっすぐにものを見るということがすごく難しくなっている、ということだと思います。何が悪くて、何がいいことなのか、それは心の奥底では誰にでもおおよそわかっていることなのに、現実社会ではまっすぐに生きることが難しくなっているのでしょう。惨たらしい殺人事件が日常茶飯事になったことと、「なんですか?これ」と平気で訊いてくることは、それほどかけはなれた話ではないのだと思います。私が「せめてまっすぐに見られるようになりたい」と意識したのは、つい五・六年前です。つまり普通にしてたら、まともにものが見えなくなる。というか、はたして今の自分はまともにものを見ているのだろうか。このままでは何も見えないまま生かされているだけだ。そんなに若くはないのだから、もうそろそろ、きちんとものを見れるように、努力しよう。そう思いました。でも、だからといって何を努力してよいのやら、しばらく考えました。哲学や宗教を一から勉強しないといけないものなのか。人間の歴史だって何にも知らない。それより自分は何を知らないのかさえ知らないのだ。そして、何かをやるといっても今さら何ができるのか。それで結局のところ、やりたいことをやるのがいちばんかな?「ものを見るということ」ずっと昔から、それが私にとっての美術でした。まっすぐにものを見ようとすると、現代美術など、ぐにゃぐにゃに歪んだ現代社会を映すだけの歪んだ鏡でしかありません。こんなに醜く刹那的な作品を増殖して一体何になるんだと思います。美術は歪んだ社会を告発するためのメディアではありません。結果として歪んだ社会を告発するだけの力はあります。しかし、美術作品がそれだけのために存在するのであれば、こんなに寂しいこともないでしょう。新しさに価値を求めることが、いかに古臭いことなのかをいい加減わかってもいいんじゃないかと思います。新しさに価値を求めるという、アメリカの大量消費経済のための価値観を刷り込まれた愚かな日本人の構図が、美術の世界でも幅をきかしている。「新しいアート」などと聞くと虫唾が走ります。「21世紀初頭に現代アートと呼ばれた美術は、腐った時代の残骸でしかない」と学校の教科書に載る時代がくるのではないでしょうか。

「世界は無数の階層的なリアリティで成り立っている」芸術家は、より多くの階層にわたって世界のリアリティを表現していくべき立場にあると思います。20世紀は、その階層を自ら排除し、目に見える物質という薄っぺらな階層だけを世界の前提にしてしまったがために、21世紀になってもなお、大量殺戮と環境破壊がとどまるところを知りません。「新しいアートなどと聞くと虫唾が走ります」と言ったのは、こうした考えからです。ちょっと話がずれてしまいました。ここで私が言いたかったのは現代美術批判ではなくて、世界の多層性ということです。何度も言いますが、「世界は無数の階層的なリアリティで成り立っている」。「まっすぐにものを見るということ」とは、目に見えるものをすべてとするのか、その背後に、目に見えるものを統合する力を見るのか、そしてさらにその力を統合する世界と見るのか、そしてさらに…というふうに世界の前提をどのような次元で見るのかという問題です。つまり世界はいくつものリアリティの階層があって、それはどの階層であっても現実であり、世界の姿でもある。さしづめ科学とは、一番下の最も狭い範囲の世界の前提ということが言えるでしょう。科学とは、そうした世界のリアリティを規定する階層の一つにしか過ぎません。それは科学で解明できることが現実世界のほんの一部でしかないことで明らかです。ポンティの提唱する「身体性」ももう少し上の階層のリアリティのひとつと言えると思います。心理学やトランス・パーソナルも、世界の前提をどう捉えるのかを問題にしていますし、気功や風水、ヨガ、シュタイナーも、それから世界的な宗教も、世界を階層的なリアリティによって解き明かし、人々の生き方を導こうとしています。きっと、たくさんの階層の相当上のほうに「愛」があるのだと思います。そしてさらにその彼方に光があり、永遠がある。人は、より多くの階層を見ることができればできるほど、そのリアリティは深く、多くの人々を世界の実相に導くことができる。現実に潜む世界の深いリアリティを多くの人々にコミュニケートする。これは私の単なる想像でしかありませんが、作品を通して、世界のリアリティを、より深い次元で伝えるのが芸術家のなすべき仕事だと思います。ものを見るためには、目が必要です。肉体的には、もちろんそうなのですが、精神的にも、やはりものを見る目が必要だという、まあ、当然といえば、まったく当然のことです。では、ものを見る目が自分にあるのかないのか、さすがにそれはわかりません。わからないというくらいですから、きっとないのでしょう。何が正しくて、何が間違っているのかなんて、そのときの状況でまったく違ってきたりします。で、また長くなりそうなので結論だけいいますと、結局は、この世界の前提をどう捉えるのかということで、世界の見え方がまるで違ってくる。だからこれが正しいとか言っても、この世界の前提が違えば、まったく意味のないようなことにもなりかねない。ここで言う世界の前提というのは、現実というもののリアリティをどういうレベルで捉えているのかということです。つまり世界は見る人によってまったく違って見えるということです。「何を当たり前のことを言ってんだよ」と思われた方は、おそらく私の言いたいことが伝わっていません。ここまで読んで、ニヤリとされた方は、おそらくこの先は読まなくてもわかっていただけると思います。ひとことでいうと「世界は無数の階層的なリアリティで成り立っている」ということです。人によってその階層のどのあたりまで見ることができるのかということで、世界の見え方がまったく違ってくるということです。

芸術家には、この見える世界の階層が、けっこう広い範囲で目に映っていたのだと思います。ダ・ヴィンチミケランジェロはもちろん、近代のセザンヌジャコメッティにしても、世界をどこまでも見ようとする芸術家としての目に映る世界を描きとめてきたのだと思います。そしておそらく彼らのその視線の彼方には「永遠」があったのではないかと思うのです。しかしながら、ジャコメッティにおいては、その永遠を見るには、時代があまりに歪みすぎてしまった。彼の作品からにじみ出る絶望感とは、この世界が見えなくなってしまったことに対する絶望なのだと思います。近代絵画と呼ばれる画家までは、かろうじて世界の向こう側に「永遠」があったのだと思いますが、現代、つまりダダ以降の芸術にいたっては、もはや「永遠」が見えなくなるほど社会が歪んでしまい、芸術家は目の前にある歪み自体を表現せざるをえなくなってしまったのではないかと思います。「既成概念を打ち破るところに新しい時代の美が生まれる」などと言うと、ちょっとかっこ良かったりしますが、それが大きな間違いであったことは、20世紀の美術史が証明していることなのです。近代の画家は、近代社会の悪影響を受けながらも、まだ世界のリアリティを高いレベルで見抜こうと努力していた。しかし、現代はその努力を放棄したところから始まったと言ってもいいでしょう。現代美術は世界の前提をひっくりかえしてしまった。しかしそれが間違いであった。西洋近代という時代は、世界の前提を目に見える物質に限定することで、多くの物資的な豊かさを獲得してきました。つまり現実のリアリティを物質というひとつの階層に限定し、あとは何もないものとする世界の前提をつくりあげました。その思想的な根拠になったのが近代科学でした。目に見えるものしか信じない。というより、二度の大戦でボロボロになったヨーロッパでは、もはや「永遠」など信じようがない。そこに登場したのがアメリカの開き直った物質至上主義芸術、つまり唯物アートです。スーパーリアリズムなどそのまんまですね。ネオダダ、ポップアートをはじめとして、次々とスタイルを変えながらも、混迷していく世界の惨状を浮き彫りにするだけの美術作品は、時代を追うごとに、社会批判の要素さえもが排除され、何の救いもない空虚な狂気が蔓延してます。

「世界は無数の階層的なリアリティで成り立っている」芸術家は、より多くの階層にわたって世界のリアリティを表現していくべき立場にあると思います。20世紀は、その階層を自ら排除し、目に見える物質という薄っぺらな階層だけを世界の前提にしてしまったがために、21世紀になってもなお、大量殺戮と環境破壊がとどまるところを知りません。「新しいアートなどと聞くと虫唾が走ります」と言ったのは、こうした考えからです。ちょっと話がずれてしまいました。ここで私が言いたかったのは現代美術批判ではなくて、世界の多層性ということです。何度も言いますが、「世界は無数の階層的なリアリティで成り立っている」。「まっすぐにものを見るということ」とは、目に見えるものをすべてとするのか、その背後に、目に見えるものを統合する力を見るのか、そしてさらにその力を統合する世界と見るのか、そしてさらに…というふうに世界の前提をどのような次元で見るのかという問題です。つまり世界はいくつものリアリティの階層があって、それはどの階層であっても現実であり、世界の姿でもある。さしづめ科学とは、一番下の最も狭い範囲の世界の前提ということが言えるでしょう。科学とは、そうした世界のリアリティを規定する階層の一つにしか過ぎません。それは科学で解明できることが現実世界のほんの一部でしかないことで明らかです。ポンティの提唱する「身体性」ももう少し上の階層のリアリティのひとつと言えると思います。心理学やトランス・パーソナルも、世界の前提をどう捉えるのかを問題にしていますし、気功や風水、ヨガ、シュタイナーも、それから世界的な宗教も、世界を階層的なリアリティによって解き明かし、人々の生き方を導こうとしています。

きっと、たくさんの階層の相当上のほうに「愛」があるのだと思います。そしてさらにその彼方に光があり、永遠がある。いや、これも単なる私の思い込みかもしれません。人は、より多くの階層を見ることができればできるほど、そのリアリティは深く、多くの人々を世界の実相に導くことができる。現実に潜む世界の深いリアリティを多くの人々にコミュニケートする。これは私の単なる想像でしかありませんが、作品を通して、世界のリアリティを、より深い次元で伝えるのが芸術家のなすべき仕事だと思います。芸術家の仕事とは、私なんかのような趣味の自己満足とはわけが違うのです。この歪んだ世界でなお、世界の深遠なリアリティをつかむには、かつての巨匠よりも、何倍も努力しなければならない時代なのかもしれません。見方を変えれば、今ほど世界のリアリティを人々に訴えなければならない時代は、他になかったと言えるのかもしれません。そしてもうひとつ見方を変えるなら、21世紀は、かつてのような巨匠が世界のリアリティを模索し提示するのではなく、世界的なネットワークの発達した現代では、より多くの人々が、同時に世界の多層的なリアリティを発言していくという、世界市民的なムーブメントとして現れることが望ましいのではないでしょうか。それこそ本当の意味での「新しい芸術」が生まれる時なのだと思います。そう考えると、私が自分のためにやっている趣味の表現活動がいつかどこかで何かの役に立つ日がくるのではないかなどと、妄想を巡らせている秋分の日でした。

一応、誤解のないように言っておきますと、なにも世界自体が本当に階層構造になっているというのではなくて、「そのような見方をすると、人間にとっては世界を捉えやすいのではないか」ということを言ったのです。人間が世界をどういうふうに見たところで、世界そのものが本当にそうなっているかどうかは誰にもわからないわけです。(それはあくまで人間が世界を見ているという前提での視点であって、これはとりもなおさず一方的な人間中心主義の視点だということです。近代西洋の物質的な発展の基盤には、そうした視点で世界を捉えてきたがために、今のような歪んだ社会をつくりあげてしまったのだと思います。)私たちはいまだ世界を客観的に知りようがないのかどうかさえわからないのですから、わからないことに対して、ああだこうだ言うより、自分にとって、そこの何が大切なのかという視点で捉えるべきだと思います。真理の探究などと大上段に構えて哲学者のまねごとをしたところで、所詮たかが知れているわけで、それなら一市民としてまっとうに生きるための心構えとして世界をどう見るのか、そして20世紀から21世紀にかけて日本で生きたということになる自分は、いったい何をしたらいいのか、何ができるのかということに対して、少なくとも何らかの答えを出すべきではないかと思うのです。そして子どもたちにも伝えなければなりません。このまえここで紹介した息子の質問。「動物は誰かの食べ物になって役に立ってるけど、人間だけが誰の食べ物にもならないのは、役に立っていないということだよね。人間は何の役に立っているの?」その質問にきちんと答えることができない自分にはっとしてしまいました。子どもにわかるように説明できないのではなくて、私自身が答えを見つけられないということにです。はたして人間はほんとうに世界の一部なのだろうか。世界の支配者のような気になって、いまだに世界を食いつぶしている人間は、もうそろそろ「もうおまえはいらん!」と言われるのではないだろうか。最近のニュースを見ながら、そんなことを考えてしまいます。

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長くてすみません(笑)。改行しなくてすみません。
だから読まなくていいって最初に言ったじゃないですかあ。
こうして読み返してみても、今考えていることとさほど変わりはないなと思います。
「人間は何の役に立っているの?」と訊いてきた小学2年の息子が今は中学2年生。その答えは当分見つかりそうにありません。