これからはおくんちに向かう長崎です。

派手な精霊流しのお盆が終わって、長崎の街は10月のおくんちへ向けてまっしぐらです(笑)。聞けば、さだまさしさんのお父様の精霊船が130人の曳き手とともに豪華絢爛だったそうで。う〜ん、有名人はちがうなと思ったら、さださんのメジャーデビュー曲が「精霊流し」だったことを思い出しました。あの曲のおかげで長崎の精霊流しがいちやく有名になったわけですが、あのもの悲しい曲と、実際の精霊流しの大騒ぎのイメージにギャップがありすぎて、しみじみしたイメージで長崎に来られた方はびっくらこいたでしょう(笑)。
 
ま、そんなわけで、なにかとイベントやお祭りの好きな長崎の人ですが、そのなかでも、ダントツで盛り上がるのが「長崎くんち」。地元では「おくんち」といいます。昔はこのおくんちに奉納する町が、いわゆる「長崎」で、そのほかの周辺のまちは新興住宅地みたいなものでした。今でもなんとなく中心と周辺の区分けはこのおくんちの踊り町か否かで区別されています。いや、べつに差別してるわけじゃないですよ(笑)。いまでは、その中心部の人口が減ってしまって、おくんちの出し物をする人たちも町外からかき集められているといった状態です。毎年7つの町が七年ごとに順番がまわってきます。だから7年に一度の晴れ舞台というわけで、これに参加するために、また子どもに参加させるためだけに、その町に引越したりする人だっているくらいです。カフェ豆店主が生まれ育った町は諏訪町といって、あの有名な龍踊りの踊り町です。よく「龍踊りに出たんですか?」と訊かれますが、残念ながら出ていません。私の親が何を勘違いしたのか「うちは仏教なので息子を神社の奉納に参加させるわけにはいかない」というなんともわけわからん理由だったそうです。本人としては、誰もがやりたくてたまらないことをなんで断るんだろうと納得いかなくて悔しい思いをしましたけどね。親には逆らえません(笑)。ま、昔(昭和30年代)はそんな漠然としたところで世の中が成り立っていたんですね。ちょうど映画の「3丁目の夕日」の時代です。あまりきっちりものごとの輪郭をさせないままに、高度経済成長の時代へ突っ込んでいったころです。あれが良かったのか悪かったのか今でもわかりませんが、時代としては今よりも良かったのかもしれません。でもあの時代がああだったから、今がこんなになってしまったということもいえるのかなと。近年おくんちも地味になってきました。おくんちのプレイベントである「庭見せ」の振舞酒もなくなったし、前夜祭の「うらくんち」もなくなったし、私が子供の頃に楽しみにしていたお化け屋敷や見世物小屋やサーカスもいなくなったし、なんだか行儀のよいおまつりになったような気がします。考えたら当時の見世物小屋って人権侵害もはなはだしかったですよね。ま、時代なんでしょうね。
でもやっぱりおくんちは根っからの長崎生まれにとっては最高です。おまつりというのは本来観光客相手のエンターテイメントではありません。地域の生活文化にねざした、地元の人たちによる、地元の人たちのためのハレの儀式です。文化人類学的に言うと難しくなるのかもしれませんが、そういうことは置いといて(笑)、観光客の人たちが見に来るのはけっこうですが、観光客がお金を落としてもらうためにやっているのではありません。近年、今年は何人観光客が来たとか、今年は去年よりも減ったからなんとかしなきゃとか、観光客のために期日をずらしてもう一回やろうとか、そんな本末転倒なおろかな発想でおまつりを見せ物と勘違いする傾向がありました。産業振興を観光に頼らないといけない長崎のまちの実情は理解できますが、かといっておまつりを道具にするという発想はおかしいと思います。観光客相手の見せ物はグラバー園や龍馬だけにしてほしいものです。もともと観光客目当てにつくられたグラバー園亀山社中記念館ですから、それはそれでいいとしてもです…と、ちょっと辛口だったかな(笑)。
 
ということで、今日もまたカフェのことは書かずに、だらだら余計なことを書いてしまいました。
 
明日はいよいよ「松尾薫ピアノリサイタル壮行ライブ」です。午後7:30から、ノーチャージで本格的なクラシックピアノの演奏が聴けるという、すんごい日です。飲み物代だけでOK。みなさん明日はお気軽に夜のカフェ豆へおこしください。もちろん予約なしで大丈夫です。待ってま〜す。
 
それから、先日の8月9日のブログにたくさんのコメントをいただきました。ほんとうにありがとうございます。ほんとうはお一人おひとりにお返事を書きたかったのですが、これまたおっそろしく長くなりそうだったのでやめました(笑)。でもほんと感謝してます。もちろん書き足りなかったことはたくさんあります。というか、ほとんど何も言っていないのと同じです。平和ボケと言われるような今でも、「平和」について語ることさえ、あまりに困難が多すぎる世の中です。平和でもないのに平和ボケにさせられているといったほうがいいでしょう。そして人類史上でいまだに平和が訪れた国はないのかもしれません。人類の歴史は支配するものと支配されるものの歴史です。その手段が戦争です。支配するものにとって戦争は手段でしかありません。究極の暴力です。冨を得るためのいちばん手っ取り早い手段が戦争です。つまり人類は戦争によって支配するものの歴史をつくってきました。誰が世界を支配してきたのかというのが学校の歴史の時間に学ぶことでした。でも、いま現在誰が世界の冨を支配しているのかは教えてくれません。いまでも支配するものは戦争によって冨を得ようとしています。そうした構造は数千年経ってもひとつも変わらないでいます。この構造を変えるには、まだ数百年、数千年かかるのかもしれませんし、変わらないうちに人類は自滅するのかもしれません。平和でありたいと願う世界中のほとんどの人々ではなく、冨と権力を支配しているほんのわずかな人たちがつくりあげた世界の構造によっていまも世の中がつくられています。村上春樹氏はエルサレム賞の授賞式で、そうしたことを支配者に向かってひとりで発言しました。これはすごいことだと思います。すごいなんてもんじゃない。おかげでノーベル賞はチャラです(笑)。そうしたことを議論するようなことさえ許されないのが今の世の中です。家族を殺されても戦争はいけないんだと普通の人がいくら叫んでも、戦争を起こす側は痛くもかゆくもないわけですから、叫ぶことよりも構造を変えるしかないのかもしれません。それは人類がまるごと生まれ変わるほどの壮大な転換といえるでしょう。つまりそれほど困難なことだということです。でも、あえてかの地に赴いて村上氏が発言したように、私たちもいまそれぞれが住んでいる場所で発言することができるステージをつくることができれば、少しだけ平和という見たこともないものに近づくのではないかと思うのです。
村上春樹氏のエルサレム賞授賞式のスピーチの中に、こんな行(くだり)があります。
「ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?」
長崎の平和の象徴としてたてられた平和祈念像は、常に壁側でものをつくってきた作家の作品と言えるでしょう。「平和なんか来るわけない」と豪語する人間につくらせた平和の像。これは長崎にとっての壁の象徴なのかもしれません。しかし今さら体制に翻弄された作家個人を批難するのではなく、こうした事実をふまえて私たちはこれから平和に近づけることを信じて行動することが大切なのだと思います。信じることも大切だし、疑うことも大切だと思います。それは他人を疑うのではなく、自分を疑うということ。そして他人を信じること。これは決してきれいごとではないと思うし、私(私たち)は間違っているのかもしれないという視座に立つことは、他人を信じることの始まりなのかもしれません。私(私たち)は間違っているのかもしれない。これは簡単そうで、じつはとても勇気のいる決断だと思います。疑問なのに同時に決断と同様の大きさと重さがあります。きっと自分を信じること以上に難しいことです。自分が信じていたことは間違いだったと認めることは、信念を貫き通すことよりも、もっともっと勇気のいることだと思いますし、それが必要なときが人生の中で何度かはあるものだと思います。それは、それまでの自分を自分で否定することのように思えるからこそ、たいへんな恐怖と虚無感が襲ってくるだろうし、逆にちょっとは疑ってはみたものの、それまでの自分の信念に浸っておけば、どれだけ楽な人生なのかもしれません。それは価値観、人生観の問題ですから、いまの世の中では個人の自由なのだと思います。でも自分の間違いをまっすぐに認めることのできた人生は、なにもそれまでの自分を否定することどころか、そうした自分をも含めて他人をも肯定することのできる自分になることなのだと思います。平和への願いを誰もが解き放つことのできるステージをつくっていくこと。私たちはまだまだそんなところから始めなければいけない歴史の通過点にいるのだと思います。

もう5年近く前に、AGASAというコラム雑誌を友人のワインバー田舎の店主である梅さんといっしょに、いろんな方の協力のもとに発行しました。長崎の人が自由に語ることのできるコラム雑誌は5号で休刊となりましたが、その創刊号に書いた私のコラムは父についてでした。ちょっと長くなりますが(もうすでに十分長いですが(笑))紹介します。
「まるで満州にいたときの銃撃戦の音のようだ」 
8月15日になると、精霊流しの爆竹の音を聞くたびに父のこと、というより父のつぶやいたこの一言を思い出します。
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命をつなぐこと 上海・満州・長崎

「まるで満州にいたときの銃撃戦の音のようだ」
はからずも終戦記念日の8月15日がくるたびに、精霊流しの爆竹の音によってよみがえっていたであろう彼の戦争体験。彼は戦地にあっても戦争反対者であった。そして上官であるにもかかわらず、一度も部下を殴ったことがなかった。それは彼から聞いたのではなく、17年前に彼の突然の訃報をきいて霊前へ焼香に訪れたかつての戦友からはじめて聞いた話だ。
 彼は戦地の満州においてもひそかに言っていた。
「あんなに素晴らしい中国人となぜ戦わなければいけないんだ。なぜ殺しあわなければいけないんだ」
戦争が終わり、本土に引き揚げ、それぞれの生活にもどった彼や当時の戦友たちは、その後も連絡をとりあい、「戦友会」と称して彼のもとに集まり、当時を振り返ってはそれぞれに今のあることを喜びあってきたという。
 彼は太平洋戦争直前まで上海の新聞社で働いていた。彼の古いアルバムを開くと、上海時代のモダンな格好をした姿が見える。生き生きと青春を謳歌する彼の姿がセピア色の印画紙に焼きついている。そして上海に渡った高等学校時代から70歳で亡くなるまで、中国への尊敬と親愛の思いが途絶えることはなかった。60歳を過ぎてからあらためて中国語を学びに聴講生として大学へ通い、念願だった1ヶ月間の中国への一人旅。中国のことを語るときの幸せそうな彼の顔。旅先で偶然知り合った洛陽の青年とは、帰国後も毎月のように手紙を交換し、彼亡きあとも妻が手紙のやりとりを続けている。
「私は一民間人として日中友好の役に立ちたい」
彼の遺志は妻へ、そしてさらにその子どもへ受け継がれている。
 私は、長崎に原爆が落とされてから、たった13年後に自分が生まれたことを、それほど意識していいなかったのだが、考えてみれば、彼が亡くなってから過ごした年月のほうが長いのである。学校では、過去に戦争があり、長崎に原爆が落とされたことは学んでも、なぜ原爆が落とされたのか、日本がそれまで近隣諸国にどんなことをしてきたのかを学んだ記憶はない。ヒバクシャの母をもつ私でさえ、戦争も原爆も遠い過去のことであるかのような気にさせられていたような気がする。
 戦後60年。今やっとおもてに出てきている日中間の戦争に対する意識のギャップは、日本が行った侵略戦争が決して過去のことではないということを警告しているのではないだろうか。今の日本の若者は、実際には知らない戦争や原爆の悲惨さを自分たちが訴えても、そこに何らリアリティはないのだから、自分たちのできる平和へのアピールが別にあるはずだと言う。はたしてそうだろうか。もちろん私だって戦争も原爆も知らないし、聞かされてきたのは戦争の被害者としての苦しみと悲しみの声ばかりだったし、加害者としての日本はいまだに封印されたままである。これだけ世界的なテロや異常気象による惨禍が頻発する世の中で、原爆の悲劇を特化する必要があるのかという声も聞く。しかし本当にそうだろうか。
「まるで満州にいたときの銃撃戦の音のようだ」
そのつぶやきが、煌めくような青春時代をともに過ごした中国の人々に銃を向け、殺し合いをしなければならなかった彼、つまり私の父の無念さに気づくのに、私には10数年という歳月がかかってしまった。それは私がひとりの息子の父親になってはじめて気づいたことであった。
 命をつなぐこと。親から子へ、子から孫へ。大切な命をつなぐことこそが生きた証であり、生きていくことの意味ではないか。私はこの歳になって、もの言わぬ父からそんなことを教えられたような気がする。
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父は昭和30年ごろに長崎市諏訪町にある中通り商店街の一角で、「豆ちゃん」という屋号の豆屋をはじめます。いまのカフェ豆ちゃんから歩いて1分ぐらいのところです。カフェ豆ちゃんは、その父のつけた屋号を受け継いだものです。父のおへその近くには、もうひとつおへそがありました。それは戦争中に満州で被弾した銃弾を摘出した痕でした。父が「これは鉄砲ん玉ば取り出したとさ」と、お風呂場で幼い私に説明してくれたことを憶えています。もちろんそのとき驚いた私に戦争の何たるかは知る由もありませんでした。いま思えばその銃撃戦の記憶というか、恐怖というか、そしてその殺し合いの相手が、ともに青春を謳歌した中国人であったことの不条理を、皮肉にも終戦記念日である8月15日に毎年思い出していたのです。父の中国への親愛の思いは、亡くなるまで変わりませんでした。それははからずも殺し合いをしなければならなかったことに対する謝罪の念だったのかもしれません。
 
あらら、思いがけなく語ってしまいました(笑)。あんまりこんなことばっかり書いてると、気難しいカフェだと思われるのが怖いというか、ほんとにこんなカフェがあるのかさえ疑われそうで怖いので、このへんで。
このへんでって、もう十分長過ぎですね(^^)

 
あ、明日の長崎市民FM「珍来ラジオ」は「三波春夫特集と岡野雄一ライブ」で盛り上がるぞ〜って先週告知しましたが、ちょうどカフェ豆で松尾薫壮行ライブとなったので次週に延期しま〜す。すんませんm(__)m