月曜日はオフトーク

先日のカフェ豆ライブ「重低音クラッシック」は、おかげさまで大入り満員。ほんとうにありがとうございました。そして繰り広げられた演奏は、ほんとうに素晴らしかったです。あっという間に至福の時間が過ぎました。コントラバスとチェロのエンドピンをを床に直接突き刺しての演奏は、カフェ豆の空間自体が楽器になったみたいで、その音だけでも心地よいのに、ぴたりと息のあった演奏に、みなさん満足されたようでした。このコントラバスとチェロだけのコンサートは、演奏家のおふたりも初めてだったそうで、この日のための練習もずいぶんしてこられたようです。ありがたいですね。コントラバスの亀子政孝氏は9月から1年間イギリスへ留学するのだそうです。でも帰ってきたらふたたびカフェ豆での演奏を約束してくれました。ほんと楽しみです。
 
 
さて、あっという間に7月がやってきました。いよいよ私の個展が始まります。もうほんとに待ったなしなので、全力を尽くしてゴールを目指すだけです。7月24日(土)〜8月4日(水)KTNギャラリー(長崎市五島町)にて開催します。そしてそれに合わせてカフェ豆でも7月20日(火)〜8月29日(日)まで「吉田隆美術作品展」を開催します。みなさん!ぜ〜ったい見に来てねっ(笑)。いや笑い事ではなくて、ほんと見に来てください。普段はとぼけたカフェの店主で、いつ仕事をやってるのかわからないようなデザイナーですが、そのまた影にかくれて、こそこそと美術作品をつくっているカフェ豆店主が、およそこの30年間で何をしてきたのか、したかったのか、しようとしてきたのか、そんなことも含めて、さらにこれから何がしたいのか、できるのか、できないのか、でもやろうとしているのか、そんなこともひっくるめての、ある意味これまでの総決算的な意味合いの強い展示になると思います。こんな機会を設けてくださったKTNギャラリー様と、こんな私を推薦してくださいましたIさんにほんとうに感謝しています。わたくしも何とかお応えできるよう、精一杯頑張ります!みなさま、どうかよろしくお願いします。今回の展示内容はいま最終的な詰めの段階です。とりたたて変わったことをやるつもりはありません。これまでに美術作品の制作と発表を通じて、自分がしたかったこと、見えてきたことの再確認のようなものです。私の作品は実際の大きさがかなりのものなので、自分でもなかなか見る機会がありませんし、それほど数多くもありません。ひとつの作品の横幅が5メートル、8メートル、10メートル、高さも4メートル以上だったりして、どれもがほんの数日間だけ美術館などに展示されるだけで、あとは自宅の部屋に積み重ねられているだけでした。今回はそうやって30年間に制作してきた作品の中からいくつかを選んでの展示となります。人間一生のうちに何が出来るか、そう考えると、なにかしら少しでもカタチに残ることがあるのはとても幸せだと思います。多くのことをやることが決していいことだとは思いませんし、カタチに残らないことを地道にやり続けることのほうが尊いことなのかもしれません。でも美術作品というものは、一部例外を除けばカタチとして残るものです。カタチとして残らなくても記録として残ります。もちろんそのつどカタチになった作品にも意味はあるのでしょうが、そうして人ひとりが何十年もかけてつくってきた作品を一堂に展示することは、また違った意味があると思いますし、、それをつくってきた本人にとってはかけがえのない機会だと思います。そうした意味でも今回の個展という場を得られたことの意味は、少なくとも個人的には大変な意味を持ったものといえます。ここまで来たなら、もう今さらジタバタしても始まりません。30年以上、自分の人生の中で、まったく利害関係を抜きにして、純粋に表現したいものをつくってきたことのひとつの…なんといいますか、結論が出るのかもしれません。それはある意味とても恐ろしいことです。もしかしたら大した意味もなかったという結果に終わるかもしれません。でも生きているうちにこうした検証はしておきたいと思うのです。そう、これまで生きてきたこと、もしくはいま生きていることを検証する機会といったら大袈裟でしょうか。私は画家でもないし、プロの芸術家でもありませんが、自分にとっての美術作品の位置づけは、それくらい大切なもののつもりです。その「つもり」が本物であるかどうかを確かめられるような機会なのかもしれません。ですからただ単に自分のつくった作品を発表して自己満足するようなことでは断じてないわけです。これはひとつの大きな賭けなのかもしれません。そうした意味でも、多くの方に作品を見ていただいて、その率直な感想や意見をお聞きしたいと思っています。美術作品、特に近代以降における美術作品は、ひとつの高度なコミュニケーションツールだと私は思っています。それは写真や演劇や映画や音楽もそうなのですが、そのすべてとは言わないまでも、そのほとんどが何かを誰かに伝えたいがための手段だと考えます。ですから伝わらなければ何の意味もありません。そしてさらに大切なことは「何を伝えるのか」ということ。それは頭で考えるようなレベルのことではないと思います。もっといえば人ひとりが考えてすむようなことでもないと思っています。世界は脳がつくっているなどと言ってるようなレベルではないことは、芸術を少しでも理解する人ならすぐにおわかりになると思います。それは行く行くは科学が世界を解明できるなどという戯言をしたり顔で豪語しているような似非学者には絶対にわからない世界です。…ちょっと言い過ぎました?(笑)世界を理解するには、ときには大脳皮質が邪魔をする場合だってあるでしょう。科学の最先端と言われてきた量子力学でさえ、結局のところ私たちがそれまで理解の前提としてきたものがいかにいい加減なものであったかを証明する歴史でもありました。……あ、すみません。理屈はどうだっていいんです。つまり理屈のさらにその向こう側に対して、私たちはちゃんと向き合わなければいけません。でなければ今の世の中のようにおかしなことになってしまうからです。ということで、話はどこまでいっても終わらないのでやめときます(笑)。ともかく、作品を人に見てもらうということは、自らまな板の上の鯉になるということです。怖いですね〜(笑)。