呼吸するカフェ

結局のところ月に一度はライブをやっているカフェ豆なので、どうしてもそっちのお知らせばかりをしてしまって、基本のカフェについてのご紹介がいつもそっちのけになっていて、そのたびにこれじゃいかんなあと思いつつも、やっぱりライブが近づいてくると、ひとりでもたくさんの方にライブを楽しんで欲しいと思うあまり、そのお知らせばっかりしてしまう店主でございます。
このあいかわらず厳しいご時世に、コーヒーが美味しいの美味しくないのと悠長なことを言ってる場合じゃないという方もいらっしゃるかもしれません。迷走を続ける政治家たち。一般の人たちには迷走に見えても、それは見えないところで恐ろしい権力とお金のかけひきが行われていることを、決してマスコミはとりあげません。そんな社会の中で、明日の暮らしもどうなるかわからないようなときに、文化だなんだと言ってもはじまらないと思ってる方もいらっしゃるでしょう。でも、こんなご時世だからこそ、すばらしい美術作品や素敵な本物の音楽にふれることで、私たちは道を踏み外さずに生きていけるのではないでしょうか。文化は金持ちの道楽ではありません。確かに昔はそうだったかもしれませんが、町人文化が栄えた江戸時代以降、今に至るまで、美術や音楽は庶民の生活の中からも出るようになりました。それは政治や国同士の関係や流通や人々の生活意識などさまざまな変化によってもたらされたものでしょうが、明治になって西洋文化がいっきに入り込んでからは、日本人の文化意識が急激に変わりました。それはけっしていい方にばかり変わったわけではありません。むしろその影響のされ方は西欧追従型になったぶんだけ後退したと個人的には思っています。二度の大戦や原爆投下を経験した日本、つまり戦後の日本がつくりあげてきた文化が、それまでのものと比べるとどうにも貧相になったというのも否めないでしょう。それは芸術が、特に美術作品が個人の表現手段として扱われるようになり、方や商品化し、方やいたずらに難解で観念的な、いわば独善的なものまでもが許される時代となりました。そして戦後の日本経済が右肩上がりできたことにまぎれて、大衆とされる人たちの文化意識、生活意識のレベルはかえって落ちていったのではないかとも思います。西洋から入ってきた大量消費を前提とした経済のしくみは、人々の美意識を鈍化させていきました。豊かさが精神から物質へ移行し、モノやお金の物量が豊かさのものさしとなったとき、芸術さえもそうした仕組みの中に組み込まれていきました。西洋画が日本に入ってきた明治初期には、すでに安井曾太郎や岡田三郎助、岸田劉生といった天才的な画家がすんなりと西洋画の技法を日本の精神文化として昇華させました。つまりそれまで日本で培われてきた優れた芸術文化が西洋画のノウハウと出会ったということであって、ゼロから西洋の文化を真似たり学んだわけではありませんでした。だからこそ西洋画のノウハウが入ってきたばかりであるにもかかわらず、当時の日本の絵画が今でもかなわないと思えるほど素晴らしいのだと思います。しかしながらそれ以降、数々の戦争とともにめまぐるしく変化する社会のなかで、日本人の生活は文化意識と同様にそうとうに変化していきました。とくに美術というものそのものの定義さえ揺らぐほどの変化に、いつしか美術は難解なものの代名詞として、そしてその作家はどこか一般社会から逸脱しているかのような、そしてそれでも許されるかのような扱いさえうけるようになりました。しかし実際にはよほどの天才でもない限り、破天荒な芸術家を装っただけの単なる生活破綻者も多かったようです。いろいろあっていいと思います。でもいいものとそうでないものは時代に左右されることなく残っていきます。残るということは、時代を超えた価値が存在するということです。新しいものがよいという考え方は、大量消費を前提とした経済のしくみによるご都合主義でしかありません。しかし今考えれば当然のようなことが、高度経済成長時のころにはわからなかったわけです。さらにあのどう考えても異常だったバブルの絶頂期をどうすることもできなかったわけです。その裏で、子どもたちはろくな教育をうけられず、子どもたちによる深刻ないじめや自殺が一般化してしまいました。ここで政治批判をしてもはじまりませんが、要はこんな時代だからこそ、芸術にきちんと向き合うことが大切なのだと思います。カフェ豆に展示してきた作品は、そうした意味でも、きちんと向き合うだけの価値のあるものばかりです。壁の飾りでは決してありません。こうした展示による充実した空間を、誰もが訪れてゆったりと過ごすことのできるカフェとしてなんとか保っていきたいと思っています。充実した空間で素敵な時間をすごしていただきたい。カフェ豆はそのためのギャラリーでありカフェでありライブでありショップでありたいと思っています。否応無しに追い立てられるような慌ただしい現代の生活の中で、自分を見失わないような時間をつくることは、現代人にとって必要なことでしょう。1杯400円のスペシャルティコーヒーを飲む時間と空間は、その何倍もの充実感を味わえるものと思います。ちょっとだけ現実生活からシフトしてみることは、想像以上に大切で、そしてまた素敵なことだと思います。
大きく息を吸う前に、大きく息を吐いて吐いて吐いて、そしたらきれいな空気とともに自然ときれいな何かが身体の中に入ってきます。同時にそれまで自分の中にたまっていた何かしらの澱みのようなものの存在に気づきます。そうしたら意外なほど自分のまわりのものごとが動き出す。その動き出すことがわかる瞬間に、この世はなんて素敵なんだと思います。それはひとつの世界との一体感というか、世界と自分はこうやってつながっていて、自分の意識や意志とはまた別のつながりが感じられるようになります。私たちは忙しさの中で息をすることを忘れがちです。息はしているのですが、自分が息をしているという事自体を忘れているという意味です。そうするとどうしても浅い呼吸になる。浅い呼吸は身体の循環を停滞させます。不思議なもので、そうなるとまわりのものごとまでもが停滞します。それはなぜかはわかりませんが、そう感じるから仕方ありません。カフェ豆も常に大きく息を吐いて、大きく息を吸ってを繰り返しながら、みなさんに新鮮ななにかしらを受けとっていただければと思います。今後ともどうかよろしくお願いします。

長い前フリでしたが(前フリだったのかい)、先週から開催中の「太田孝三展」。じっくりと見ていただきたいです。こうやってあらためて見れば見るほど完成度の高い作品です。また同時開催中のたらみ図書館での展示も是非ご覧ください。

先日6月12日は太田孝三さんの命日でした。太田さんは私の大学の先輩でもあり、高校美術教師の先輩でもあり、数々の現代美術展の賞を総なめにした輝かしい経歴の持ち主でもあり、いっしょに展覧会にも参加させていただいた間柄でもあり、常に現代美術の徹底した表現を追求してやまなかった尊敬すべき方でもありました。しかし残念なことに2004年に病により他界されました。今回の太田孝三展が太田さんの誕生日である6月8日にはじまり、こうして命日を期間中にむかえることができたのも何か意味があるのかもしれません。

こんどの日曜日、6月20日は第一回目の「昼ジャズ!」の日です。太田さんの作品に囲まれて、ジャズトロンボーンとピアノで楽しむ40分間。こんな贅沢な時間と空間を、なんとコーヒー1杯400円で楽しむことができます。おそらくどこにも真似のできない企画だと思います。日曜日のお昼のカフェ、ジャズ、現代アート。ちょっと贅沢すぎるかもしれません(笑)。なんども言うように、こんな時代だからこそ、こうした時間の過ごし方が必要なんだと思います。どなたでもお気軽においでください!