馬場一郎絵画展開催中!

んまぁ〜、いろいろあります、生きてると(笑)。みんなドラマです。みんな舞台に立って、それぞれが主役だったり脇役だったり、いいやつだったり、悪役だったり、背景だったり、幕だったり…。それぞれの役を演じている。シナリオは?誰かが書いてる…きっと誰かが。時間って、エネルギーのひずみみたいなもんじゃないかなって。なんかこうグニッとなったはずみで時間のようなある種の前後関係みたいな状況ができて、そこに宇宙のようなものができて、時間そのものの概念っていうのは、その中のほんの一部分であって、時間の概念が成り立っている以外の、つまりそれ以外の大部分には過去も未来も空間も関係ないというのがこの世界なんじゃないかって思うのは、ちょっと考え過ぎでしょうか(笑)。科学が世界を解明しようとしてきて、皮肉にも科学は自分たちの世界がどのようになっているかを解明できないということを次々と証明する羽目になってしまった。これは面白いですね。ミイラとりがミイラになっちゃうみたいな…ちょっとちがうか(笑)。よかれと思ってやってきたことが、結局真反対のことを証明してしまった。そうした構図というか顛末そのものが面白い。この世はなんでできてるかということを証明できる力はないということを証明できることも、ある意味すごいですよね。たとえば人間は鏡をつかわずに自分の目を見ることはできません。それはあきらかなことなんだけど、「鏡をつかわずに」という条件のもとの定義なんで、「そんなに自分の目を見たかったんだったら鏡をつかえばいいじゃん」っていう簡単なことなんです。言ってることがわからない?つまりですね、科学は科学者がいちばん知りたいこと、はっきりさせたいことをさんざん研究した結果、それが不可能であるという、いちばん証明したくなかったことを証明しなければ行けない立場になってしまったということが、とっても面白いなあという話です。ちょっと考え方をかえれば済むことなのに。つまり鏡をつかえば済むことに気づかなかったということですね。科学のおかげで人間はとんでもなく便利な生活ができるようになりました。私が子どもの頃からすれば、今はほんとに鉄腕アトムの実写版みたいな世界です。みんなが携帯電話を持って、世界中のどうでもいいような莫大な情報を知らされ、見知らぬ人のツブヤキまで共有して遊んでる。で、それで幸せなのかっていうと「…別に」です。便利と幸せは違うということに気づくのがかなり遅かった。お金をたくさん持つことが幸せになることじゃないんだということに気づくのがかなり遅かった。便利な生活のためにどれだけ地球を破壊してきたかということに気づくのも遅かった。まだ気づいてない人だっている。自分が幸せになるためだったらどんなに人を殺しても他人を苦しめてもいいと思ってる人たちが世界をこんなふうな仕組みにしてしまった。人類の歴史って、おおざっぱに言えばそういうことなんですね。その大きなシナリオのすきまでチマチマと小さな幸せをあじわっているボクたち。さて、これからボクたちに何ができるか。このでたらめに入り交じった世界のなかで、少なくとも自分に何ができるのか、何をしたいのか、そんな問いかけをいつも自分にしながら、とりあえずしなくちゃいけないことに追いまくられて生きています。これはいっとき前に流行ったアホなポジティブ・シンキングではありません。あんな現実逃避は世界をかえって暗くしてしまいます。ものを見えなくします。明るいところも暗いところもあっての世の中。光も闇もしっかり見つめていかなきゃいかんでしょう。かといって闇に光をあてるのもいかんでしょう(笑)。闇は光をあてた瞬間に闇ではなくなる。つまり闇を闇として認める。自分も他人も。おいおい、カフェ豆店主は寝不足で頭がどうかしちゃったんじゃないか…と思ったでしょ(笑)。う〜ん、そうかもしれないし、そうじゃないかも…いやそうかな。いやいや、現在カフェ豆店内のギャラリー「ギャルリーコクトー」で開催中の「馬場一郎絵画展」のすばらしい作品を見ながら、ふと思ったことを書いてみたのです。すでにこの展覧会が始まって2週間が過ぎたのですが、私はこの展覧会をどのように紹介すればいいのか、ずいぶん悩んできました。それがうまくできないまま、このブログにも期日とタイトルを紹介するにとどまってしまっていたのです。馬場先生。馬場先生を知るほとんどのみなさんは、そんなふうに呼びます。もちろん長年高校の美術の先生をされていたこともありますが、馬場先生を知るだれもが感じている馬場先生の人間の良さみたいなものを「馬場先生」という呼び方に込めています。もちろん私も「馬場先生」と呼ばせていただいています。馬場先生は現在74歳。茂木の山奥にある小さなアトリエで日々油絵を描かれています。さりげない野山の風景や、もう何度も訪れたイタリアの町並み。そのひとつひとつの作品は決して奇をてらうことなく、とてもとても清らかな心が映し出されています。こんなことを言うと、おそらく馬場先生は「いや、あなたね、そんな恥ずかしいことを言ってくれちゃ困るな。ボクはね、ほんといい加減で、いつも失敗ばかりしてる人間なんだよ」と照れながらおっしゃるでしょう。馬場先生の絵はとてもおだやかです。変わったところはひとつもありません。ときには子どもでも描けるんじゃないかと思えるような素朴な筆致があります。でもそれは長年絵画ひとすじに挑んできた馬場先生独特の世界を見る目と自然を感じる心と、多くの人間とのふれあいの蓄積があればこそなんです。わたしなどとても近づける世界ではありません。馬場先生は言います。「ボクはね、もう随分とおいぼれちゃったけど、あと10年は絵が描けると思うんだ。だからこの10年間は精一杯頑張って、なんとか人に見せられる絵を描けるようになりたいと思ってる」やってきたことは凄いのに、いつも低姿勢で、決して奢らず、そして静かに前向きに頑張っていらっしゃる。何を描いても温かい先生のまなざしが感じ取れる絵なんですね。世界の歪んだありようを告発するエキセントリックな現代美術とは対照的に、伝統的な絵画技法でおだやかに絵を描き続けてきた馬場先生。しかし私たちにとってほんとうに大切なものが何かと言う問いかけるにじゅうぶんな力をもっていると思います。馬場一郎絵画展は6月6日(日)まで。ちょっとお疲れ気味のあなた。静かにおいしい珈琲を飲みながら、どこまでも真摯にものを見続けて、描き続けてきた画家の絵を見に来ませんか。きっと見てよかったとつぶやいている自分に会えると思いますよ。