一般非常識理論

日曜日の営業が終わり、これからデザインの仕事の続きをしているわけですが、明日、明後日と、やっぱり大忙しのカフェ豆店主、いやデザインスタジオヨンエフデザイナーであります。で、これからおそらく水曜日の朝までデザインにはまってると思うので、定休日の勝手な書き込みをちょっとだけやっておきますね。
先日ここで書いたアメリカの死刑囚の話。つまり死刑執行直前の死刑囚が自殺未遂をして意識不明になったんだけど、刑務所側はその死刑囚が意識を取り戻すのを待ってから死刑執行をする予定だとのこと。最初はこれはあまりにむごいじゃないかと思いました。まあ、これだけを聞けばだれでもそう思うでしょう。でもこれ以上の情報がないので、この死刑囚がどんな人間で、どんな罪で死刑になるのかという情報がまったく欠落しているわけです。極端な想像すると、もしかしたらこの死刑囚はとんでもない殺人鬼で、自分のその場の快楽のために平気でいくらでも罪のない人間を殺しまくったやつで、文字通り何度殺しても殺し足りないようなやつかもしれないから、刑務所は「これだけの罪を犯しておきながら自分で死なれてたまるか」と思ったのかもしれない。でももしかしたらこの死刑囚はまったく身に覚えのない罪で死刑にされようとしているかわいそうな人かもしれない。だから「どうせ死ぬんなら身に覚えのない罪で殺されるより自分で死んだほうがましだ」と思ったのかもしれない。直前に自分で命を絶つことで、それこそ命がけで潔白を主張したかったのかもしれない。で、もしそうだとしたらよけいにむごい話ですよね。それほど事態をどうとでもとられる曖昧さをふくんだ情報なわけです。だから先日の書き込みには「誰が悪いとか、ここが良くないとかの話ではなく、なんとも理不尽というか、かわいそうなのかかわいそうでないのか、わけがわからなくなる話だなあと。」と書いたわけです。
世の中には一般常識では考えられないことが山ほど渦巻いています。たとえば国会議員の答弁なんて、およそ一般常識からかけ離れまくっていますよね(笑)。このあいだの長崎県知事選挙のときだって、いきなり長崎にのりこんで初対面の支持者に面と向かって恫喝して票とお金を集めていた政権政党の代議士がいましたよね。長崎県民の多くは、これが新政権の政治のやり方なんだとわかって支持団体さえそっぽを向いたあげくのあの選挙結果だったわけです。この代議士の行動は国会でも問題になったし、首相も一部だけど公式に謝罪したことなので、ここにもこうやって書けるわけですけどね。世の中には書けることならまだしも書けないことがいくらでもあるわけで、マスコミなんて書けないことはいっさい書かない保守的な日和見メディアになりさがっています。「よいこのお知らせ掲示板」ってな感じです。それはともかく、つまりは一般常識の背後には非常識がゴマンとふんぞりかえっているわけです。むしろわたしたちは非常識の中でなんとか常識的な見かけの生活を送っているのかもしれません。これを「一般非常識理論」と名付けましょう(笑)。で、この一般非常識理論を現実にあてはめてみると、いろんな現実のつじつまが合ってくるんですね〜。エリカ様騒動だってコクボ騒動だって、この一般非常識理論に照らせば、ごくふつうの茶飯事。今日やってた鳩山首相の「自衛隊イラク派遣は合憲」という発言だって、以前彼が頭の毛を逆立てながら反対していたことであったにしても、さほど不思議でもない。なんせ非常識なんだから(笑)。では、ではですよ…私たちが普通に「常識」と考えていることが現実的ではなく、逆に非常識と思われていることが日常茶飯事の朝飯前だとしたら、いったい「常識」って何なんでしょうね。問題はこの「常識」と「現実」の乖離ってやつです。常識はいつしか理想とか言われて雲の上に追いやられて、非常識が現実とぴったり重なってしまうときがそう遠くないのかもしれません。何人もの罪のない人を殺しまくった極悪人だったかもしれない死刑囚は、見方を変えればイラクに派遣されているアメリカ兵だって同じようなことをやらされているわけで、そんな何万何十万もの人間を極悪人にするようなことを先頭に立って指揮しているアメリカ大統領が、同時にノーベル平和賞を受賞するのが今の「常識」なんですよね。ほらね一般非常識理論が少し説得力を持ちはじめたでしょ。そしてこの非常識をいつのまにかみんなが「常識」と呼ぶようになる。これがいちばん恐ろしいことですよね。
もう30年も前に「赤信号みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの漫才ネタがありました。当時一部で非常識とか不謹慎とか批判されましたが、この言葉が多くの人の共感を呼んだのは、まさにこの非常識が常識に移行しようとしている世の中を痛烈に皮肉っているからで、あの人は非常識でもなんでもなく、現実をそのまま披露したんですね。常識的には不謹慎と思っている自分たちの現実を知らないうちに自分たちで笑っているという構図をつくりだした。本当は笑えない自分たちの現実を思わず笑わせてしまうという、これはすごいことですよね…つくづく。
 
話ついでにアートの話。アートっていう呼び方を私はあんまり好きじゃないと言う話は以前にも何度かしました。それはこれまで美術と呼んでいたものを、なんとなく軽いノリで誰でもできちゃうのがアートだよみたいに、何というか「ナンバーワンよりオンリーワン」のような安易な自己肯定によって世の中努力しないでもいいみたいな、あるいは学校の運動会でみんないっしょにゴールしましょうみたいな偽善がまかり通るような胡散臭さを感じるからです。あんまりいい例えじゃないですね(笑)。美術っていう言葉も明治時代になって偉い人が名付けただけの話で、それまで日本は絵師とか彫師などといった職人だったわけで、明治になってからいろんなものごとに西洋の考え方を無防備にとりいれた結果、ARTを美術と訳したんだから、本来アートっていうカタカナのほうが正しいのかもしれないんだけど、今のアートっていう言葉の使われ方は、どう考えてもそれまで美術と呼んでいた芸術の領分をはるかに広げて「何でもアリ」を無批判に容認しているような感じがして、どうにも好きになれないんですね。だからたとえば社会批判的なメッセージとしてつくられている作品を見たりすると、べつにわざわざ作品にしなくても文章ではっきりしかるべき筋へ訴えたらどうだと思うわけで、たとえ作品が社会批判的な要素を含んでいるにしても、さらにその背景となる現実というものを踏まえたうえで芸術的な要素がしっかりと存在しない限りは美術作品とは呼べないわけです。それはおそらくそこに美しさがあるかどうかではっきりと別れるんじゃないかと思うわけで、美しくなければやはり美術作品ではないし感動もないと思うのです。単に作品を見る人がそこに秘められているメッセージに共感するだけなら、さっきの漫才だっていいわけで、美しいということの定義はそれこそ難しくはありますが、アートという言葉を使うことによって、美術作品が単に何かのメッセージを伝達する手段であってもいいみたいに思われてきた…つまりそこに芸術性がなくても成り立つのがアートと呼ばれるようになったんじゃないかと。
っていうわけで、どうも定休日の書き込みはついついボヤキになってしまいますね(笑)。今回は意識的に改行してみました。これくらいが精一杯です。