見えるものと見えないもの

まったく何の関係もないのですが、偶然見つけた面白いサイト。その筋では有名なのかもしれませんが、私は知らなかったので、この抑制の効いたアニメーションを見てニヤリと笑いました。既成のいろんなものをうまく調合して、ひとつの完成されたスタイルにしていくバランス感覚は見事ですね。べつに斬新でも高度なテクニックというわけでもないですが、これをここまでまとめあげる力はお見事です。テクニックに走らないセンスといいますか、まずはこのサイト「怪盗プリン」↓にアクセスして、アニメーションのい画面まで辿り着いてください。できれば外部スピーカーで大きな音とともに見ると一段と面白いです。
http://www.kaitopurin.com/
この秀逸なアニメーションを引き合いに出すのもどうかとは思いますが、こうしたニヤリとできるような時間や空間が少なくなってきましたよね。何の役にも立たないけど、それがあることでとても幸せな気持ちになる、とか、なけりゃないで済ませられるけど、あったら楽しい時間が過ごせる、とか。それはいわゆる「気持ちの問題」なのでしょうが、この「気持ちの問題」をおろそかにすると、とんでもないことになる。「貧すれば鈍す」という諺があるように、人は経済的に余裕がなくなると、一見どうでもいいようなことにまで目が向かなくなるものです。明日の生活さえどうなるのかわからない状況で、今はなくてもいいように見えることは、真っ先にあとまわしになります。仕方ないといえばそれまでですが、目に見えないものだから、あるのかないのかわからないものだから、後回しにしてもいいような気になってしまう。それがほんとうは一番恐ろしいことなのかもしれません。「人を殺そうと思った。誰でもよかった。」という無差別殺人が増えているのも、それほど関係のないことではないでしょう。人から見捨てられる。それがいやで人は人殺しもしてしまう。親から見捨てられる。子どもから見捨てられる。友だちから見捨てられる。そう思い込むだけで、すべてがいやになって、すべてを他人のせいにしてしまう。自分の不幸を他人のせいにしてしまいたくて、一線を越える。もしかしたら、その一線の越え方が、目に見えないものをおろそかにしてきたことのツケなのかもしれません。大切なことって何だろう?この歳になっても答えが見つからず考え続けています。答えが見つかるのかどうかとか、答えが見つかるようなものなのかを考えるよりも、やっぱり大切な何かを考えることのほうが大切だと思います。そうすると、今までしがみついていたものが、ちょっとだけ遠くに見えてくるんじゃないか。今までうっすらとしか見えなかったものが、ちょっとだけ近づいてきてくれるような気がします。世の中、見えないもののほうが見えるものよりも圧倒的に多いのは明らかです。こうした圧倒的に見えないものによって生かされているんだということを肌で感じて生きたいと思います。たとえばそんな気持ちで彫刻家 堀内健二氏の作品を見てみる。壁に掛けられた不思議な形をした小さなオブジェが、世界の見えない圧倒的な部分の窓口に見えてくるのです。これは私が個人的に見た例えばの話です。もちろんどんなふうに見てもいいわけです。ただ「これはどんな意味があるのですか?」と何も考えたり思ったりしないうちから他人に尋ねるようなことはやめて、いちどじっくりと目の前にある作品と向き合ってみましょう。

堀内健二氏の弟子である野島泉里くんは今回の企画の発案者でありコーディネーターでした。彼のHPにて展示風景をアップしてくれました。↓
http://nojima-s.sakura.ne.jp/blog/log/200907.html#eid187