長崎市民FMに出ます


このあいだからお知らせしています「山本正興トークショー」。しばらく毎日宣伝させていただきます。ぜったいおすすめです。参加ご希望の方は早めに電話でお申し込みください。095-825-4455(カフェ豆ちゃん)です。で、明日の午後8:30から、長崎市民FMの「珍来ラジオ」生放送に出演して、このイベントについて語らせていただきます。長崎市民FM長崎市内でも聞けるところが限定されていますので、なかなか聞けないとは思いますが(笑)よかったら聞いてみてください。
_____________________________
 
 
今日は月曜で定休日。早いもので「野島泉里彫刻展」も2週間が過ぎました。残すところあと一週間。まだ見てない方はお見逃しなきよう。さて今日ご紹介する作品は『山水』です。

『山水』 大理石 120×1200×150mm \400,000
今回いちばん背の高い作品です。台座を入れずに高さ1m20cmの大理石の堂々たる作品。なにかすっくと胸を張って未来に向かっているような凛々しさを感じます。これだけの大きさの大理石をつかって、このような形の彫刻をつくることを思いきれること自体で、野島氏の彫刻家としての覚悟がうかがえます。素人では絶対踏み込めない世界だと思います。絵ならとりあえず描けば何らかのかたちになりますが、彫刻はそう簡単には作品にさえならない。絵ならごまかしもきいたり、ときには偶然いいものが描けたりもします。しかし彫刻はごまかしも偶然もない。修錬の積み重ねによって作品として成立するレベルになって、なおかつそれから先に何をつかみ表現し、かたちに到達するかが問題です。科学とかテクノロジーという世界から見ればとてもアナログでスローな世界ですが、そこでしか表現することのできない大切な何かがあるからこそ「彫刻」というものが古代から輝きを失わずに、むしろ今の時代だからこそ光り輝くのかもしれません。決して飾らずとても前向きさと力を感じるこの作品は、今の野島氏自身のような気がします。見ていて元気になるような作品です。
話は変わりますが、先日めったに見ない新聞を見たら、あらなつかしや、関根信夫の有名な作品「位相―大地』がどこかの公園にふたたびつくられて展示してあるそうです。戦後日本の美術を語る上でなくてはならないエポックメイキングな作品ですが、当の作者ご自身はそれほどまでの思い入れはなかったとのこと。実際に出来上がってみてから作品が発する存在感と作品の意味の大きさと、その後の話題性に困惑気味だったとのこと。確かにそうかもしれません。そして私としてはあの作品を彫刻としてカテゴライズすることに今でも納得がいかないのですが、まあ、リチャード・セラやドナルド・ジャッドのミニマルな立体作品も彫刻というのだそうですからそういうことにしときましょう(笑)。関根信夫をはじめ、李禹煥(リーウーファン)や榎倉康二などなど…(ああ、なんか懐かしい名前ですね)いわゆる「もの派」と呼ばれた作家の作品は立体でこそあるけれども、それはこれまでの彫刻とはかなり意味の違ったものでした。世界を構成する概念と物質をどのように捉えれば世界が見えてくるのか…そんな難しいことばかりを考えていた時代でしたね。1970年前後ですから学生運動や万博や三島由紀夫やアングラ劇や…、当時中学生だった私などは大学生がすっごい大人に見えました。当時の美術手帖を見てもわけのわからない哲学用語がいっぱいだったし、なんかけんか腰の座談会とか評論が載ってましたね。そんななかで美術系の大学生になった私も何やら難しげなものに憧れたりもしましたよ(笑)。そしてこの「もの派」の作品はやはり魅力的でした。それから思い出したのが三木富雄さんの耳シリーズ。あれもなかなか衝撃的でした。粘土でかたちをつくってアルミやFRPに仕上げる行程作業は従来の彫塑ですが、造形的な概念としては彫塑とは言いがたい。で、あの耳の奥の穴にあたる部分、つまりひょろひょろと脳にまで達しているような神経みたいな部分は、アルミニウムの鋳物にするときに偶然できたふきこぼれであって、いわゆる「バリ」というやつが何かしらとっても深い意味を示しているようで、作家本人もそれをそのまま作品としたのだと何かに書いてあったのを思い出します。制作過程の中で自分の意図しなかったものが立ち現われてきたとき、それをどう考えるのか。それはまず作家にとって大きな問題です。…素人の私がだらだら書くのもなんですから、あとは野島さんに交替しましょう。