63年目の涙

63回目の夏。長崎には全国からさまざまな考えや立場でたくさんの人が訪れます。やはり今日という日は長崎にとって特別な日です。反面、8月6日や8月9日が世の中から忘れ去られつつあるのも確かなようです。世間ではその場限りのハリボテのように取繕われたオリンピックが開幕し、誰もが冷や汗をかきながら偽りの祭典が一体どうなるのかを注目しています。何かあったら世界中が「あ、やっぱり」と言うに違いありません。何もなかったとしても本気で素晴らしい祭典だったという人はいないでしょう。

先月、ひとりのご婦人がお店に来られました。そのときは抱星窯の小玉恭子さんの作品を見にこられたのですが、その後、お店の隅にかけてある私の作品をすごく近くに寄って熱心に見ていただきました。そのあとお席に戻られたので、コップの水を注ぎに行きましたら、「あの馬の作品はどのようにしてつくられたんでしょうね」と訊かれました。そのときのご婦人の目には涙があふれそうに浮かんでいました。私はどうしたんだろうと、ちょっとびっくりしながら「あれは滝と馬の写真を合成してイメージをつくった私の作品なんです」と答えました。それからご婦人は、少しずつ幼い頃の馬との出会いを話してくれました。ご婦人は4歳のときに原爆にあいました。爆弾が投下されたときはちょうど市外にいたので命は助かったのですが、爆心地からいくらも離れていない自宅にいた家族は皆即死だったそうです。すぐに爆心地に戻った4歳の女の子が見たもの。一瞬にして家族を奪われたばかりか、周りのすべてが吹き飛ばされ、無数の焼けこげた死体が散乱する中に放り出されたとき、どのようなことになるのか想像できるでしょうか。ご婦人は「何も感じなかった」とおっしゃいました。「死というものの恐ろしさを感じることができなかったんです」。おそらくあまりの恐怖と絶望に心を閉ざさずには生きていけなかったのだろうと思いました。小さな命は本能的に恐怖という心を閉ざしたのでしょう。しかし何の落ち度もない幼い女の子がこんなふうにして心を閉ざさなければいけないような光景が63年前の広島と長崎にあったのです。黒くこげた山のような死体も何も怖くなかった。ただそのときに見た内蔵がふくれあがった無惨な馬の死体が今までずっと頭から離れなかった。あのときの馬はどうしたんだろうか、目だけは澄んで優しかった馬が忘れられなかったそうです。ご婦人にとって唯一現実として心に入ってきたのがこの大きな馬の存在だったのだそうです。そして今回、私の馬の作品に出会って、あの馬が大きな滝の中でたたずんでいる姿を見て、これまで心の奥底に沈んでいた思いが一気に甦ってきたのだそうです。あのときの馬はこうして清らかな水をいっぱいに浴びて幸せになったと感じたそうです。その涙は、同時に自分の人生の中で否が応でも抑えていなければならなかった心の部分を、63年の年月を経て肯定することができた瞬間なのかもしれません。「あれから60年以上経って、やっとこのごろ死の恐怖がどんなものかが感じられるようになりました。そして私は戦争に対して何も言えなかったけれども、せめて意地でもこの長崎に留まって生きていこうと思っています」。
戦争という不条理に対して怒ることができる人はまだ救われるのかもしれません。わけのわからない殺戮を目の前にした人に対して、あのときのことを思い出して語りなさいと誰が言えるでしょうか。怒る以前に、嘆く以前に、悲しむ以前に、目の前で起きたことを心の奥深くに閉ざして生きていかなければならなかった人の苦悩を、私たちは知る由もありません。自由とか権利とか、今ではあたりまえのように連呼する世の中ですが、あの人類史上最悪の殺戮のひとつを経験した国のひとりとして、私たちは今ある世界の殺戮にきちんと意思表示をしなければいけないと思います。権力が欲しくてたまらない政治家を利用して、金持ちがもっとお金欲しさに戦争話をふっかける。そしていつも罪のない人々同士が殺し合う。誰もがわかっていながら巻き込まれてしまう独裁と戦争。世界はまだそんなところにいるのだと、オリンピックの報道を見ながら思いました。