9・11で1周年

カフェ豆オープン1周年に向けて、ああでもないこうでもないと企画を考えています。9月11日。これは誰に言っても信じてくれないのですが、あの9・11に合わせたわけではありません。ほんとです。たまたまお店をやろうと思い立ってこのブログを始めたのが一昨年の9月11日で、どうにかオープンできそうな日がちょうど1年後の9月11日だったというだけの話なんです。おまけに、オープンにあたってのキャッチコピーをドストエフスキーの「地下生活者の手記」にあった「一杯の茶のためなら世界など滅びていい」という一説を引用しちゃったものだから、9月11日オープンというのは絶対狙って決めたんだとみんなから思われています。でもほんとたまたまなんです。ま、どうでもいいといえばどうでもいいんですがね。とにかく9月11日はカフェ豆ちゃんを思い立った日でもあり、実際にオープンした日であり、もうすぐ来る9月11日で、まるまる1年がやってくるというわけです。あっという間ではありましたが、ほんとにいろんなことがありました。ありすぎました(笑)。いろんな方との出会いがあり、すてきな企画展やイベントを開催することができました。そのつながりの中で、また新たな出会いがあり、素敵な企画がどんどん生まれています。自分でもいったいどうなっていくんだろうなんて、おもしろいやら不安やらで、まあとにかくこのままどんどん変化しながらやっていくしかないと思っています。みなさん、カフェ豆は今後ももっともっと目が離せませんぞ(笑)。そして特に9月の1周年企画にしっかり期待していてチョンマゲ(古っ)。
 
え〜、今さらですが、わたくしカフェ豆店主はデザイナーでもあります。デザイナーというといろんな分野のデザイナーがいますが、私の場合はいわゆるグラフィックデザイナーです。でも写真も撮ればコピーも書きます。イラストも描けば請求書だって書きます。田舎のデザイナーは何でもできなくちゃ食っていけないんです。で、このあいだ長崎市美術振興会という美術や書道や写真などの愛好家の団体さんから、そこの会報にデザインについて何か文章を書いてくれという依頼をうけました。もう掲載されて3ヶ月月以上経つので、ここに文章だけ紹介します。

「デザインは計算である」 グラフィックデザイナー 吉田 隆
デザインほどあいまいな使われ方をしている言葉も少ない。世界中のあらゆるファッション、建築、工業製品や交通機関、都市計画や果ては政治に至るまで、世の中にあるすべてのかたちをつくり出すことがデザインの仕事である。あくまでクライアントあっての仕事であり、クライアントの要望に添うというはっきりした、そして動かしがたい機能と目的がある。目的がぼやけた時点で、もはやデザインではない。デザインはいってみればクライアントの利益のための計算である。どこまで計算できるかがデザインの質だといっても言いすぎではない。もちろんクライアントが求めるのは経済的な利益も含めたデザインである。デザインという言葉に洗練されたイメージがあるのは、こうした利益のための計算の結果として、見た目を格好よくしているだけの話だ。つまり見た目の美しさはデザインの計算のほんの一部のことだということを知っておいてほしい。デザインの善し悪しは決して見た目の美しさではなく、クライアントの要望にどれだけ応えられるかの度合いであるから、絵画や彫刻のもつ造形性とは基本的に意味が違うのである。デザインのもつ造形性とは、人々の生活に直接結びついていることを考え合わせれば、格好がいいとか悪いとかは、むしろどうでもいい話である。人間の精神構造や身体性を計算に入れなくては、たとえどんなに美しいグラフィックでもデザインとして意味をなさない。一度そうした視点でデザインの作品を見れば、デザインが美術とはまったく違った成り立ち方をしていることが理解できると思う。

この会報を読まれるのは、もちろんこの会の会員さんなので、絵や書や写真などを愛好しておられる方へ、デザインというものと絵や書とどう違うのかを説明させていただきました。絵や書や写真とちがってデザインは趣味でできるものではありません。クライアントのいないデザインなんてありえないからです。ですからせめてその根本的な違いはおさえていただきたいなと思ったわけです。「趣味で油絵を描いてます」なんていうのはよくありますが、「趣味でグラフィックデザインをやってます」っていう人はいません。つまりデザインは芸術作品とちがって誰にも望まれないものをつくるわけにはいかないのです。じゃあ、芸術作品だったら誰が望まなくてもいいのかというと……それでもいい場合があります。つらいけどね(笑)。カッコのいいものをつくりたいからデザイナーになりたいと思っている若者たちにひとこと言いたいのは、デザインのカッコよさは、デザインのなかのほんの一部分であり、むしろそれ以外の大部分のことをクリアする能力がなければデザイナーにはなれません。もちろんカッコいいのをつくれて当たり前。問題はそれ以外の大部分なのです。たとえばデザイナー志望の若者から名刺をいただくことがよくありますが、最近特に多いのがなんて書いてあるかわからない名刺。それと文字がめちゃめちゃ小さい。小さすぎて読めないのと、中にはなぜか英語だけしか書いてない。おいおい、ここは日本だぞ。いまどき西洋かぶれじゃ完全に時代遅れもはなはだしいというのがわかっていないんですなあ。時代感もずれてて、何て書いてあるかもわからないような名刺をつくるようなデザイナーに、自分の会社の広告を委ねようと思う経営者はいませんよね。まずそこから計算ができないようではデザイナーにはなれません。名刺に自己表現してはいけません(笑)。デザイナーは芸術家ではないんだから、クライアントが任せて安心できると思わせるような名刺を差し出せるようじゃないとですね。
おお、今日は思わぬところでデザインの話をしてしまいました。たかが名刺、されど名刺。名刺ってやっぱりその人の顔なんですよね。特に初対面の人にとっては相手が何者かを判断する重要なアイテムですから、へんにカッコつけた名刺は完全にマイナスです。見やすくわかりやすく素直で好感が持てる名刺なら、それだけですばらしいビジネスツールとなります。デザイナーって名刺一つデザインするのにそこまで考えるんです。っていうか、それくらい考えられなければデザイナーとは言えません。きびしいことを言うようですが、何が書いてあるかわからないような名刺を平気でデザインするのは、すでにその時点で失格なのです。……話が終わりそうにないので今日はこのへんで(笑)