アンビエントな空間

daiさん、どうもありがとう。おかげでこういうのを思い出しました。

1983年、ブライアン・イーノがラ・フォーレミュージアム赤坂で行なったライブ。ライブというのかどうかは別にして、もう20年以上も前になるんですね。ランダムに段差をつくって、モニターをばらまいて環境ビデオ(なんか言い方が古めかしい)を垂れ流しにして、来場者は座ったり寝っ転がったりして、他に何も起こらないライブ空間にぼんやりとくつろぐ。なかにはほんとに眠っちゃったもする。今見ると丸みをおびたブラウン管のモニターが時代を感じさせますが、この空間の意味するものはいまだに色褪せてはいないと思う。しかしこれは元来、森の中やお寺での禅定とか、そうしたところにつながるもので、逆に言えば、こうした都会の人工的な環境のなかで自分自身を見つめるには、いろんなものを削ぎ落としていく必要性を提案しているとも言えます。当時はイッセイ・ミヤケのスペクタクルボディアートやダニエル・ビュランのパフォーマンスなど、まあ、80年代は企業がお金持ちだったので、いろんなアートが華盛り。でもまだアートの世界はミニマルやコンセプチュアルなどの禁欲的な表現が支持されていました。このあとでニューペインティングなんかのバガヤロ様アートがもてはやされて、バスキアやイタリアの3Cとかが紹介されると、何を思ったのか横尾忠則大先生が画家宣言しちゃうし、いわゆる何でもアリの世紀末状態が訪れるわけです。極端から極端に走るのは、時代が危ういのか安定しているからなのか、なにしろ経済力が豊かさのバロメータになった時代でした。あ、そんなことよりこのブライアン・イーノの提案するアンビエントというコンセプトはその後の音楽シーンやアートシーンに大きな影響を与えることになるわけで、それ以前のケージやカニンガムやウォーホールとは一線を画したムーブメントだったと思います。そして個人的にはアンビエントは時代をこえて人々が求める空間の要素を満たしているのではないかと思うのです。エリック・サティやもっと古くはジョン・ダウランドの世界。そんな系譜のなかでアンビエントはこれからも多くのセンシティブなひらめきをもたらす空間をつくりだすのではないかと思います。カフェ豆ちゃんはそんな空間をつくりたいと思っています。
この世において言うに言われぬものの表現を、いろんなかたちにしてきた芸術家たち。言うに言われぬものをあえて言葉の手足のなかで表現しようとした作家。音や絵画や肉体や物に託してきた音楽家やアーチスト。そんな芸術のエッセンスとでも言えるようなものの存在できる空間をつくれないかというのが、カフェ豆ちゃんの目論見であります。恐ろしくフラットでありながら上質な空間。何もないけど何でも起こりうるような感性(あまり使いたくはない言葉だけどね)の空間ができればいいなと思います。それにはdaiさんの提案されるようなシッティングスタイルというのもいいですねえ。daiさん、そろそろコラボレートといきますか(笑)