もつれた糸

ちょうどもつれた糸がほぐれて解き放たれるように、最初はもつれていることすら気づかなかったことが、だんだん自分の状況が明らかになって、どうやったらそのもつれを解きほぐすことができるかを試行錯誤することは一種の快感である。私たちは変な糸に身体を絡めとられて身動きができなくなっている。そのできなくなっていることに気づくことからはじめないといけない。たとえば一枚の素晴らしい絵画に出会ったとする。それは見るものの心を解き放つ。「ああ、人間とはこんなにも自由なのか」と。そして生きるためにがんじがらめにされた自分のことを振り返る。それは静かな森の中にいても同じような気持ちにさせられる。森という空間が語りかける。森の中で自分と森の境目が曖昧になり、その声が外から聞こえてくるものなのか、自分の内側から聞こえてくるものなのかがわからなくなる。というより、そんなことがどうでもよくなってくる。自然の声に耳を傾けるということはそうしたことなのかもしれない。静かな空間の中に一枚の素晴らしい絵画があるということは、小さくてもそこに森がたちあらわれるようなことを望んでいる。部屋に観葉植物がたくさんあるとか、鳥の鳴き声がするとか、そんな表面的なことではなく、空間をつくりあげるエネルギーの問題だ。たとえ森のようなものが何もなくても、そうした空間をつくることができるのではないか。ただ、もつれた糸をときほぐすことからはじめなければならない。カフェをつくるということは目的ではなく、もつれた糸を解きほぐすための手段と捉えるべきではないか。じつは最初から望んでいたのはそうしたことをしたかったからではないかと今になって思う。少しコンセプトが見えてきたような気がする。このあたりがはっきりしだすと、これまでのいろんなことが見事に繋がっていくのだと思う。カフェのコンセプトを固めるのではなくて、あせらずにもうしばらくは自分を解き放つ作業をやっていこう。カフェの経営という商売がしたいのではなく、そうした空間をつくりたいという思い、それは言ってみれば自分を解き放つ空間を自分と縁のある人たちと共有したいという思いからなのだ。