今日は読まなくていいです(笑)

最初から言っときます。今日の話はお店とはまったく関係ない他愛もないヨタ話です(笑)。長いですから読まなくていいです。
ほんの一、二年前に知ったのですが、○○屋という呼び方は差別用語だから放送関係では使ってはいけないのだそうです。使ってはいけないというか、日本での放送禁止用語とは放送局側の自主規制なので、いけないというより、使わないようにしているということだそうです。で、そのなかで「職業の差別にあたる」ということで規制の対象となっているらしいのが○○屋という呼び方。つまり職業を床屋とか魚屋というように○○屋ではいけないのだとか。それは歴史的な職業のなりたちの理由で蔑まれたいくつかの職業を○○屋というふうに呼んできたことから、それと同じように、職業の呼称として○○屋を使うのは差別であるのだとのこと。でもどこに寿司屋と呼ばれて差別されてると思う寿司屋の大将がいるでしょうか。あ、いや、これ真面目に怒って言ってるんじゃなくて、単に変な話だよね〜っていう面白話なのでお間違えなく。で、それじゃ花火のときに「玉屋〜!」って差別なんだろうかとか、歌舞伎のときの「成駒屋っ!」とか「中村屋っ!」ってかけ声も差別なのかとか、デパートの高島屋とか岩田屋とかはどうなんだとか、いつもお世話になってる「すき家の牛丼」や「吉野家」は屋じゃなくて家だったらいいのかとか、紀伊国屋書店はNGなのかとか、「風が吹けば桶製造販売店が儲かる」と言い変えなければならないのかとか、土屋アンナはかわいそうなのかとか、きっこの日記的なおバカなつっこみを入れたくなりません?…ならないか(笑)。でもそれと同じくらいおバカな話だなと思いました。「きみって意外と寂しがり屋なんだね」って彼氏から言われて「差別だ!」って怒る彼女はいないでしょ。映画になった「鉄道員(ぽっぽや)」はタイトルからしてNGなんだろうか。出版などの活字の世界では、○○屋でも、後に「さん」をつければOKということになってるそうだけど、それじゃあの原作も「鉄道員さん(ぽっぽやさん)」にしなくちゃいけないんだろうかとか(笑)。いったい誰がそんなことを決めたのかというと、文科省なんだそうです。そうとう暇だったのか(笑)。ま、これは笑い話ですませられますが、ちょっとまわりを見回すだけで、これと同じくらいおバカな現象がたくさんあります。じつはここまではフリでした(すみません)。いまいちばん目につくのが「エコ至上主義」。なんでもかんでもエコじゃないと気が済まないような人が増えました。テレビのCMでは、なにかとエコを売り込みの道具にしているせいか、エコこそ人類の使命かのような気になって、まんまと商品を買わされてるというのに気づかない。いっとき前は健康ブームで、「健康のためなら死んでもいい」っていうくらいの勢いで生活してる人がたくさん現れました。しょうもない健康グッズの通販が大儲けをした時期です。今では「エコのためなら息(CO2)も吐かんぞ」っていうくらいエコに命をかけてる人、いますよね(笑)。風呂の水を翌日の洗濯に使うために、それまで使わなかった臭い消しの合成洗剤を買う。これってエコなの?って。故障も何もしていない電化製品をエコのために低燃費の新製品に買い替える。でもそれって途上国に売り飛ばされて世界のどこかで使われてるでしょ。売り飛ばされずに処分されたとしても、その処分の過程でどれだけ環境を汚染してるかかわらない。それって自分が見えるところだけをきれいにして満足してるだけみたい。エコを本気でやりたいなら新たにモノ買わない生活しないとね。車を買い替えることがエコじゃなくて、買わない使わない生活をすることじゃないかなと。で、私はそんなことまでしようとは思わないのでしませんが(笑)、エコっていう言葉で消費を拡大しようという目論みにまんまと乗せられている人たちが意外に多いのにビックリです。いや、エコな考えが間違いだとは言いません。もちろんエコロジーの考え方は大切です。だからこそ本当に有効な行動をしなければいけません。だけど今はエコが商品となって蔓延している。ちょうど龍馬が商品となって出回っているのと同じです。そこまで乗せられてどうすんのって。それはバナナがダイエットに効くっていうどこかのワイドショーの司会者の話が広まって、スーパーからバナナが消えたときがあったのと同じように、どこかの主婦が食べるラー油がおいしいという噂で生産が追いつかなくなったのと同じように、もうちょっと冷静になってエコと自分の生活を考えたらどうなのよって思うことがけっこうあります。きのう原付バイクで走っていたら(もうこの時点でエコではないのですが)、前を走っていたバスの背面に「このハイブリットバスは15%CO2を削減しています。」ってデカデカと書いてありました。いいんですけどね、いいんですけど、そんなに車体いっぱいに書くことかなと思いました。なんかみっともないなあと。「私はエコでございます、何か?」みたいな(笑)。じゃあ残りの85%は削減しなくていいのか?ってつっこみたくなりますよね…ならないか(笑)。かつての映画「不都合な真実」だって、あれ自体がそうとう不都合だったみたいだし(笑)、でもあの映画の内容を信じきって献身的にボランティアをする日本の人たちがたくさんいました。「この映画をひとりでも多くの人に見てもらいたい!」って。昔、オイルショックっていうのがあって、石油の値段が高騰するから日本でトイレットペーパーがなくなるという噂が流れて、日本中のスーパーでトイレットペーパーの争奪戦が繰り広げられました。今でもなんであんなに大騒ぎしたのか、私も当時は子どもだったのでさっぱりわかりませんでしたが、今思えば単なる世論操作だったんですね。想像すらできないほどのお金持ちがもっとお金持ちになるために、庶民がまんまとひっかけられた。で、それこそ風が吹けば桶屋が儲かる的な感じで妙な噂が爆発的に広まって、それを真に受けたおばさんたち(失礼)が大騒ぎしちゃった。なんだかあの勢いに似たようなものを感じます。ちょっとまてよ、レジ袋はほんとに環境を破壊してるのか?とか、エコバックをそんなに買ってどうするの?とか、一生お風呂の水で洗濯する気なの?とか、無理して買い替えたテレビやエアコンでもらったエコポイントで何を買うつもりなの?とか、疑いだすといろんなことに?がついてきます。エコエコって言いながら、とんでもない額の税金つかって新幹線を長崎まで延ばそうとしたり、世界一肥沃だった有明海の干潟を潰しちゃったり、どれだけの人が使ってるかもわからない大きな橋を港に架けちゃったり、トンネル掘ったり。海岸を端から端までコンクリートで固めたり。エコエコって言いながら、リニアモーターカーの新幹線つくって、今より1分でも早く移動できるようにとたいへんな税金つかってる。今の新幹線とは別の線路とトンネルと橋を日本中につくろうとしてる。気分はなぜか高度経済成長のころとあんまり変わらないことしてる。エコって言うなら無駄なものは買わない使わないのがスジだけど、それじゃ経済が成り立たない。買ってなんぼ、使ってなんぼの経済が変わらないかぎり、エコとは言っても消費拡大の口実でしかない…というのは言い過ぎでしょうか。テレビを買い替えるなんてとんでもないという経済的に逼迫した家庭もたくさんある不景気の日本で、無理矢理テレビがデジタル化されて、いやでも買い替えなくちゃいけないように、「5年後には日本中の車は一台残らず電気自動車のみにします」とか、「レジ袋どころかエコバックも禁止はもちろん、バックそのものも禁止して風呂敷のみ許可。バックは持ってるだけで逮捕没収。小売店の包装紙は新聞紙しか認めません。でも新聞紙ってそもそもエコなの?」「市街地は自動車乗り入れ禁止で、すべて公共交通機関の電車か電動バス。バイクも禁止。どうしてもって言う人は課税されて1台500万円するセグウェイに乗る。セグウェイが金持ちのステータスにもなるけど一般的には嘲笑の対象にもなる」「ごみ収集は完全民営化して、ゴミの収集料金を一袋5000円にする。そしたら本気でゴミが減る」日本中がいちにのさんで、これだけやれたらエコもなっとくですね(笑)。で、話の途中で出てきた「新聞紙ってエコなの?」ですが、もし新聞が完全に電子化されてネット配信のみになったとしたら、そうとうなエコですよね。いま日本だけでもどれだけの新聞紙が消費されているのか、つまり基本的に毎日毎日読み捨てる紙ですから、今の時代これほどアンチエコなものもないのでは。お風呂の水を翌日の洗濯に使うとか、歯を磨いている間は水道を止めておくとか、そんなFMネットワークキャンペーンを100年やるより、1週間だけ日本の新聞をネットのみにするほうがエコとしては効果的でしょうね。でもそんなことには断じてならない。それはそこそこの金持ちが損するから。で、いよいよ本題に入りますが…(ここまでフリだったのか〜い)、こんなふうにいろんなものごとはお金持ちが世論操作して、もっとお金持ちになるようにできている。世界にはそれすら気づかれないように巧妙に(というか大胆に)噂を流したり戦争をしかけたりして、結局は世界のどこかで勝手に操作してる大金持ちがいるんですね。ちょうど神様が雲の上で地上の人間をあやつるような感じで、「今度は何で儲かっちゃおうかな〜、石油はもうダメみたいだからエコで行っちゃおうかな〜」みたいな。ヨーロッパの産業革命のころからそうだった。たとえば龍馬が日本中を駆け回ってなんだかんだやれたのも、そうした大金持ちから指図されたそこそこの金持ちがうまいこと口車とお金をつかってさせたまでのことですよ。龍馬のファンには申し訳ないですが、小説の中の竜馬は英雄だったかもしれませんが、実際の龍馬の立場はヨーロッパから派遣されたそこそこの金持ちのパシリみたいな役割だったわけです。だから今になってまたあれこれ商売に利用されるのはかわいそうじゃありませんか。そっとしててあげましょうよ。あ、これが本題ではなくてですね(まだか〜い!)、今の私たちが何気に使っている民主主義ってことばも、じつはほとんど幻想じゃないかって話です。私たちは自分たちの考えで選挙で投票した議員さんが法律をつくっていると思い込まされている。でもちょっと考えたらわかることですが、法律はお役所の人がつくっている。そう、「○○屋は差別だ」と決めてはばからないような人がいるところと同じようなところでつくられていて、で、それはその人たちの考えでつくられているのではなくて、誰かさんの都合で密かに簡単に変えられたりするかもしれないんだけど、でもそれなのにそれが民主主義で、日本は民主主義の国で、みんな平等だと思い込まされている。みんなに選挙権があることのどこが平等なんでしょう。じゃあ、平等って何よ。平等だったらそれでいいのか。平等が正しくて差別が間違いなのか。男性性器の愛称○○○が放送禁止ではなくて、女性性器の愛称△△△が放送禁止なのは差別じゃなくて平等なのか、正しいのか。どうして八百屋や肉屋や寿司屋がだめで○○○がOKなのか、誰か説明できるのか。政治家だって、ほんとに正しい人が立候補しているなら話は別でしょうが、現実はこのとおり。でも民主主義こそ平等で正しくて間違いないって。で、私たちは二度と戦争もしないそんな正しい国に住んでいるんだって。そんなふうになんとなく思ってしまっている。でははたしてそうなのか。私たちは、テレビや新聞の報道がどれだけ偏っているかを、ネットが広まってやっとわかったぐらいですから、もっともっと基本的なことも疑ってみる価値はあるでしょう。エコも平和も民主主義も一度は疑ってみたほうが、今何をするべきかがわかってくるんじゃないかと思います。量子力学という学問が出てくるまで、私たちは科学には間違いはないと思っていました。そのうち科学の発達によって世界の謎はすべて解き明かされるんだと思っていました。でも科学の最先端であったはずの量子力学は、みずからの立場を転覆させました。つまり科学ではこの世界の真実はわからない、理解しようがないということを証明してしまいました。私たちはエコエコと言わされながら、じつはすでに取り返しのつかない状況に来ているのかもしれません。同様に平和運動はもしかしたら人類に平和は訪れないことを証明してしまうのかもしれません。それ以前に民主主義は間違いだったと言われる時代が来るのかもしれません。もちろん私も人類すべてが、というよりこの地球のすべてが幸せであることを願う一人ではありますが、現実は多少建て前のきれいごとで覆われていながら、あいかわらず環境を破壊し、戦争を繰り返し、差別と搾取が席巻しています。だからこそ、せめてきれいごとに惑わされないようにしたいなと思っています。つまり、人権(差別)やエコや平和や民主主義というきれいごとの言葉で本質を覆い隠して操作される人間にならないようにしないとねっていう話でした。(よっ!カフェ豆屋!!)
最初に読まなくていいって言ったのに、とうとうここまで読んでしまった…いや、読んでいただいた方、そのたいへんな努力のついでに「読んだ」のひとことをコメントにお願いします。そのひとことでいいです。きっとお互いに救われます(笑)。