自分は間違っているかもしれないという決断

今日は定休日なのでというわけではないのですが、カフェ以外のことについて書きます。このごろは定休日にあんまり関係なく好き勝手に書く機会が多くなりました。でもけっこうみなさん読んでくださっているようなので、調子こいて書くことにします(笑)。改行しません(笑)。以前はカフェのことはここに書いて、個人的なことは個人のブログ「黒糖庵」のほうに書いていたのですが、あっちは主に趣味でやってる美術作品についての備忘録にしましたので、こちらで好き勝手なことも書きたいと思います。

人は自分がやってきたことを正しいと思いたい。たとえうすうすでも自分は間違っているんじゃないかと気づいてきたにしても、その間違いを面と向かって言われたり、間違いだったことの事実を決定的に思い知らされなければ、なかなかそれを認めるには至らないものです。とくにそれが自分の生き方に関することであれば、おいそれと間違いを認めたくはないでしょう。そんなことをしたら、それまでの自分の人生が、そして存在までが「間違い」だったということになる。じつはそうではないのだけども、そんなふうにしか思えなくなるし、そのことがとてつもない恐怖心となって襲ってくる…のではないでしょうか。歳を重ねれば重ねるだけ「間違い」を認めたくないというのは理解できます。でも、人間どこかでその間違いを認めないことには、それこそ生きることの意味から遠ざかったままで生涯を終えることになります。何が正しくて何が間違いかなんて誰にもわからない。そりゃそうかもしれません。…ここでいう正しいこととか間違いとか言うのは、自分に対してウソをついていないかどうかということです。
なんとなく間違いがないと思われている科学の世界にしても、ニュートン力学が通用していたのは遠い昔のことだし、物理学の歴史は、それまでの科学の概念をひっくりかえすほどの大転換の連続でした。でもそれさえ正しいのかと言えばよくわからないのです。とくに量子力学の成果として、科学自体が真理探究の学問であることを断念させてしまったぐらいですから。つまり科学に真実をあばく力はないということを量子力学が証明してしまった。だからこれからの科学は真理探究ではなくて応用技術としての可能性を追求していく学問になったわけです。それは科学の敗北ではなくて、科学と言う学問がやっと地に足がついたということかもしれません。もともと人間には何が正しくて何が間違いなのかを見極める能力はないということです。
8月16日のここのブログにこんなことを書きました。
「私(私たち)は間違っているのかもしれない。これは簡単そうで、じつはとても勇気のいる決断だと思います。疑問なのに同時に決断と同様の大きさと重さがあります。きっと自分を信じること以上に難しいことです。自分が信じていたことは間違いだったと認めることは、信念を貫き通すことよりも、もっともっと勇気のいることだと思いますし、それが必要なときが人生の中で何度かはあるものだと思います。それは、それまでの自分を自分で否定することのように思えるからこそ、たいへんな恐怖と虚無感が襲ってくるだろうし、逆にちょっとは疑ってはみたものの、それまでの自分の信念に浸っておけば、どれだけ楽な人生なのかもしれません。それは価値観、人生観の問題ですから、いまの世の中では個人の自由なのだと思います。でも自分の間違いをまっすぐに認めることのできた人生は、なにもそれまでの自分を否定することどころか、そうした自分をも含めて他人をも肯定することのできる自分になることなのだと思います。」
最初に書いたように「たとえうすうすでも自分は間違っているんじゃないかと気づいてきた」という人間の能力は注目すべきなのかもしれません。よくわかんないけど、どうもこれは間違いかも。そのごくわずかな気づきを大切にしないとなと思います。ま、いわゆる「勘」みたいなものですね。それは思い込みの中に混ざり込むと、まったく見分けがつかなくなるというやっかいなものですが、それでも理屈を通り越してのものごとを判断しなければならないときがあります。「間違っているかもしれない」という発想。これは他人に対してはたやすいですが、自分に対して「間違っているかもしれない」と問うことは難しいです。とくに自分の人生そのものに対して疑ってかかることの恐怖は計り知れないでしょう。たとえばカルト宗教による洗脳から抜け出すことの大変さを見るとわかると思いますが、端から見れば、あんなに賢い人が、なんであんなばかばかしいことを信じて疑わないんだろうと思われがちです。でもきっとそんな問題じゃないんでしょうね。「自殺するほどの勇気があれば何だってできたのに」という人がときどきいますが、当人にとってはそんな問題じゃないのと同じようなものです。テレビの天気予報のついでにある「今日の◯◯占い」で「今日のあなたのラッキーカラーはブルー。ラッキーアイテムは耳かき。友だちの忠告にはちゃんと耳をかたむけましょう」とかなんとか、なんの根拠もないことだって信じてしまったりするんですから。ともかく、自分の間違いをきちんと認めることの大切さは、それこそ生き死にに関係することと同じくらい大切なことなのだと思います。そして、その間違いを認めることができた瞬間にこそ、それまでの自分の人生が活かされてくるのだとも思います。
こんなことを書くと、何かあったんじゃないかなんて思われそうですが、べつに何もありません(笑)。ただ、ときどきものごとを「こうだ」と決めつけているような人の言動をまのあたりにしたりすると、「そうじゃないことだっていっぱいあると思うんだけど」なんて思ったりするんですね。人間だれしも思い込みってありますが、それを他人におしつけちゃいけませんね。自分で思い込むのはかまわないけど、他人には他人の都合ってもんがあるだろうし、それは人に言えることばかりではないだろうし。何かを信じることはとても大切なことだと思うし、尊いことだと思います。でも同じくらい疑ってかかることも大切なことだと思うんです。それはもしかしたら何かを信じるためにこそ疑うことが必要なのかもしれません。思い込みとは、自分でも知らないうちに、何の根拠もないことを信じてしまっていることです。つまり、人は何もしないでも何かを信じてしまう生き物なんでしょう。私たちはかなりの部分思い込みで生きている。だから信じていいものといけないものを判断するためにも疑うことが必要なのかもしれませんね。少なくとも日本人にはそうした傾向があるのではないでしょうか。他の国の人のことはわかりません。国が違えば常識だって180度違うんだっってことが、このごろよくわかりますよね。自分の思い込みも隣の人には通用しないってことを前提にしないと、おしつけがましいだけのありがた迷惑なオヤジです(笑)。考えてみたら、何の根拠もないのに信じることはできても、何の根拠もなく疑うことはできにくい。何もなければ信じてしまうのが日本人の特徴なのかもしれません。自分がこうなんだから、きっとあの人もこうなんだろう。だったらあの人も、この人もみんなそうなんだって、こんな能天気な発想をしていることに気づかないことってあります。だからこそ「自分は間違っているかもしれない」というのは一種の決断なのだと思います。