「ものを選択する価値基準」

頭の片隅でときどき思うことがあって、自分でもたいした問題とも思ってはいなにのに、どうして何かしら頭の隅に引っかかっているんだろうと思うことがあります。それはまず映画「アバター」の評価についてなのですが、考えれば考えるほどあの映画はバッタもんに思えてきます。結局今の時点で世界でいちばんお金を稼いだ映画というだけで、おそらくあの映画の評価は、これからいろんな3D映画が出てくるにつけ、落ちる一方ではないかと思うのです。私もあの映画を見た時にはぶったまげました。でもその驚きは3Dというバーチャル技術によるものであって、それ以外は既存のいかにも一般享けしそうなイメージや世界観をあちらこちらからパクってつくりあげたものでしかないことに対して、普通の映画以上に落胆させられたような気がします。問題は、あの映画がどうこうというよりも、あの映画を手放しで評価している、もしくは評価させられてしまっている大衆という状況のことです。かろうじてアカデミー賞での評価がイマイチだったことで、少し救われたような気がしていますが、それでもものすごい物量を駆使しながら、あの映画から利益を得ようとするコマーシャル体制には、なにか異様なものさえ感じます。それはちょうど今の龍馬ブームにも似たようなにおいを感じます。大量のコマーシャルによって世論を操作していくやりかたは、今の幼稚な政治のイメージ戦略にも似たようなものを感じます。こんな見えすいた茶番劇でも、実際にそれがまかりとおるからやるんだろうとは思いますが、それではあまりにも大衆を愚弄しています。書店に行くと、店頭には売れるからという理由だけで、くだらないハウツー本やあやしげな自己啓発本が山のように積まれています。手を替え品を替え、それがどんなものであろうと売れればいいという本の作り方ばかりが露骨に見えて、なにかしら恐ろしくさえなります。日本人はこんなことまで本にして読まなければわからないようになったのか…と思います。そして本屋以上に、というか本屋とは比較にならないほど露骨にそうした状況がわかるのがネットの世界でしょう。つい数年前まで携帯やメールなしで生活してきた私たちは、今ではそれらなしでは社会との関わりが普通に保てなくなるほどになってしまいました。そして同時にそうしたくだらない情報までもが否応無しに押し寄せてくる生活を余儀なくさせられています。私たち一般庶民というものは、偏った情報を一方的に与えられることによって、意図的にものすごい物量を消費させられる立場にあるということを忘れてはいけないんじゃないかと思います。携帯電話やネットの普及によって、表向き便利な生活になったような気にさせられているだけで、じつは知らなくてもいいような情報に踊らされ、偏った消費行動をさせられていると同時に、たとえばエコロジーに対する感覚や、政治に対する認識や、さらに過去の歴史に対する認識までもが、ごく一部の都合によって操作されているということを、せめて気がけるぐらいの気持ちを持っていたいものだと思うのです。私たちは外国の独裁政権によって苦しむ人々を、他人事のように感じていますが、それでも程度の差はあれ、基本的には操作されているという立場には変わりはないのではないかと思います。戦後の高度経済成長という目標を持たされ、精神的な豊かさと引き換えに物質的な豊かさを手に入れた日本は、今度は世界的な経済混乱の渦に巻きこまれて、その物質的な豊かさまでも失いつつあります。多くの人々が質を無視してでも安さに飛びつく状況に陥っています。たとえば同じ額のお金で3杯の不味いコーヒーを飲むのと、1杯の美味しいコーヒーを飲むのとどちらを選ぶのかというと、普通に考えれば後者を選びますが、今の時代は同じお金を出して3度も嫌な思いをしてしまう方を選んでいるのです。経済的な不安感をあおりながら、質の悪いものを大量に消費させる。それも世界中どこでも均質というレッテルによって妙な安心感を与えながら、いつのまにか不味いコーヒーをたくさん飲ませている。もちろんこれは例えばの話ですよ。でもそれは私たちの「ものを選択する価値基準」が知らないうちに誰かの都合に合うように操作されていて、いつのまにかそうしたことに何も疑問を持たなくなっている。そのことが恐ろしいのです。私たちは独裁政権によって極端な貧困に苦しんでいる人々の情報は手に入れても、一部の人にとっては、私たちもそれほどかわらない烏合の衆として見られているのだと思います。この「ものを選択する価値基準」のあやうさのようなものと、映画「アバター」のバッタもんのイメージが重なって、どうしても頭の隅から離れないのかなと思いました。ものは少なくても、多少不便でも、生活に必要なものは質のいいものを選択して永く使う。いまそれが本当に必要なのか考える。それは本来ならしなくても自然な生活のなかで営まれていくべき価値判断なのだと思いますが、今のようなどこかおかしな被消費社会では、生活する側が気をつけなければいけない時代なんだと思います。
カフェ豆ちゃんは、もちろんカフェなのですが、世界中に均質に広げている安っぽい大量消費店舗とはまったく真逆のカフェです。コーヒー豆ひとつとっても世界最高品質と言われるにふさわしいフェアトレードされたスペシャルティコーヒーを日本のトップクラスの技術によって焙煎されたものですし、ランチやスイーツの素材も可能な限り目に見える安全な地元の素材を使って、完全に手づくりを基本としています。ですから数に限りがありますが、手づくりであるぶんだけその美味しさに理由があるのです。自分の人生の中で、どんなコーヒーを飲むのかとか、どんな場所でどんな過ごし方をすればいいのかとか、それほど関心がない人が増えたのかもしれません。でも、一度しかない人生。つまり少なくとも今の記憶の自分は一度しかないのだから、一日一日をどのように過ごすのかという問題意識は、自然と自分の身のまわりにあるもののことや、食べ物や飲み物のことや、生活する場所についても、家族を思う気持ちと同様に大切にしていくべきではないかと思うのです。それがひいては優れた文化を守り、新たな文化をかたち作っていくのだと思います。カフェ豆で素晴らしい作家の展覧会を開催したり、優れた演奏家のコンサートをするのはそうした意味からです。ペラペラの新建材に覆われた室内で、どういう行程でつくられたものか想像もできないほど不味いコーヒーを大量に飲まされることに少しも違和感を感じないで生きていくのか、人間が人間として思索したりくつろいだり友と語らうしかるべき場所を選択する価値基準をしっかりもつことのできる生活をしていくのかで、同じ人生でも大きな差ができるでしょうし、なによりそこから生み出される精神的なパワーが、何気ない人々の生活の中に本当の豊かさを作り上げていくのだと思います。カフェ豆はそんな場所になればいいなといつも願っています。そんな願いの中で、椅子やテーブルやカトラリーの一つひとつに至るまで選択しています。流れる音楽、展示される美術や工芸作品、そうしたもののすべてが調和するなかで、人々の素敵な出会いが生まれます。経営的なことを考慮すれば、そのすべたがあまりにもコストがかかり過ぎる無謀なことなのですが、カフェ豆の目的ははじめから利潤追求ではなく、長崎の一般市民がつくりあげてきた文化の一助として機能することでしたので、ここだけはなんとかぶれずにやってこれました。カフェ豆はこの9月でまる3年を迎えます。これからは、ひとりでも多くの方に、この空間に素敵に関わっていただくことで、本来の豊かさをみんなで作っていくことの出来るような場所にしていければと思っています。どうか今後とも、カフェ豆を大いに利用してください。多くの方が少しずつでも利用していただけると、もっともっと素敵なことができます。カフェ豆でできる素敵なことはどんどんやっていきたいと思っています。それがカフェ豆の「ものを選択する価値基準」です。