ちゃんとやってよ龍馬のこと

今日と明日は定休日なので、お店以外のことを書きますね。でもこんなに長いと読んでくれる人はほとんどいないでしょうけど(笑)。でもいいんです。カフェ豆ちゃんは、コーヒーを飲むだけのた単なるカフェではありません。ときには営業的な配慮を無視して言いたいことも言っていこうと思っています。
これまでカフェ豆ちゃんの中にあったデザイン事務所ヨンエフは、やっと引越ができました。引越しといってもマックとプリンタを持っていっただけですけどね(笑)。このブログは新しい事務所で書いています。せめて年末にはデザイン事務所の引越をと思っていたのですが、結局できずじまいで、年賀状も出せずじまい。あわててあけましておめでとうございますと言っていたら、はやくも成人式が終わって、次はバレンタインデーの騒ぎかと思いきや、長崎ではそれはもう龍馬龍馬であふれかえっています。龍馬や幕末とは何の関係もない商品に、ただ龍馬の文字を入れたり、龍馬の写真をつけたりした商品が山ほど売られています。ちょうどアゴヒゲアザラシ多摩川に紛れ込んで、それを見に来た見物客に「タマちゃんアイス」を売っていたようなもので、でも「タマちゃんアイス」はぜんぜん問題ないし、見物客にとってもうれしかったと思うけど、この龍馬騒ぎは尋常ではないですね。いえいえ、龍馬で商売するなというのではありません。ただこの「何でもかんでも龍馬だったらいいだろ」という長崎のまち全体の浮かれた雰囲気はどうなんだろうと思います。今日引っ越した新しいデザイン事務所ヨンエフのある中通り商店街は、長崎ではいちばん歴史と風情のある商店街で、私の両親がやっていた元祖「豆ちゃん」があったところです。昔は寺町にあるたくさんのお寺の参道沿いにあるお店屋さんの通りだったのです。ちょうど浅草寺仲見世のような形で商店街が続いて来たわけですね。そしたらいまその中通り商店街の照明灯に真っ赤な旗がことごとくぶら下がっていて、そこには「長崎龍馬の道」と書いてあるではありませんか。「誰に断って由緒ある中通りをそんなおちゃらけた名前にしたんだ」と思うのは私だけでしょうか。長崎龍馬の道…あ〜聞いただけで鳥肌が…。龍馬と福山にあやかって商売するのはわかるのだけど、なんだかこのあまりにも安直なノリには、長崎人として恥ずかしいです。丸山の料亭「花月」には「竜の間」という部屋があって、そこには龍馬が酒に酔って刀を振り回したときにつけた刀傷が今も残っていて、それを多くの観光客が見に来るのだということですが、あの刀傷を龍馬がつけたものだとは誰も言っていないことをほとんどの観光客の皆さんは知らずに、ほんとに龍馬がつけた傷だと思って帰っているようです。で、そんなことでいいのかどうか。あの「竜の間」は明治になってから建てられたことがずいぶん前にわかったにもかかわらず、いまだに「この傷は龍馬がつけたらしい」ということにしているのもどうかと思うのです。確かに龍馬が長崎にたびたび訪れていた3年ほどの間に丸山遊郭でそうとう遊んだらしいのですが、さすがの龍馬も殺されたあとで花月に行けるわけがないでしょう。ちょうど龍馬が襲撃された京都の寺田屋の建物自体が今でも残っていて、数年前まで「龍馬が襲われた部屋」ということで「弾痕」だとか「刀傷」まで含めて拝観料までとって見せていたらしいのですが、じつは龍馬が殺されて2年後の鳥羽・伏見の闘いで寺田屋は燃えちゃったことがわかったので、あの「弾痕」だとか「刀傷」は何だったのだろうということで、とんだ赤っ恥です。花月の「竜の間」も学術的に明治に建てられたことがはっきりしているのだから、あの「刀傷」はらしいもへちまもなく龍馬が付けたものではないことははっきり言うべきだと思うのです。刀傷はなくても確かに龍馬はこのあたりで遊んでいたことは確かなのですから、それでいいじゃないですか。なにもまことしやかな作り話までして観光客を呼ぶのはいかがなものかと…。まことしやかといえばグラバー園の隠し部屋だって何の証拠もないし、亀山社中の建物でも、どうやらこのあたりにあったらしいというだけで、はっきりしたことはわかっていないのに、多くの観光客の人たちは、「ああ、ここの屋根裏部屋で龍馬がグラバーに匿われていたんだ」とか、「この柱にもたれかかって日本の未来について考えていたんだ」などと思い込んで帰っていってるのはどうしたものかと。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の物語を読者が自分でふくらませるのは、それはそれでいいのかもしれないけど、史実は史実としてちゃんとしたことはちゃんとしとかないといけないと思うのです。そして倒幕の立役者たちによってつくられた明治政府以降の日本が近代国家を目指して走っていきながらも、じつはその前から西欧列強(国を操る金持ち)のいいなりになっていったことや、結局日清・日露戦争と二度の世界大戦によってどうなったか。特にその結果、長崎では軍事的な要所であったために原爆が落とされた。そして江戸時代までに培われた日本の伝統的な精神・身体文化がどうなって今に至ったかを考えると、龍馬を手放しで英雄扱いして商売のネタにしたり、猫も杓子も龍馬龍馬とばか騒ぎしている長崎のまちはいささか安直すぎるのではと思うのです。まあ、大河ドラマの福山君はカッコよかったよね…ぐらいでいいんじゃないかと。芸能ネタで騒ぐのはかまわないけど、史実を曲げてまで騒ぐのはやっぱりおかしいと思うのです。べつに日本にたくさんいる竜馬フリークを敵に回そうというのではありません。心のヒーローに夢を追い求めることをどうこう言うつもりはありません。ただ小説と史実はまったく違う世界の話だということを前提にしておかないといけないよねっていう話ですよ。と、ここまで龍馬について文句タラタラ書いてきましたが、龍馬に文句があるのではなく、龍馬を私利私欲に利用しているあさましい姿がみっともないと言ってるだけなのでご理解のほどを。
昨日はカフェ豆店主がデザインした長崎市のモニュメントの除幕式に参加してきました。今日の長崎新聞に、私と田上市長のツーショット写真の記事が載っています。「近代活版印刷本木昌造」というテーマの、つまり日本における近代活版印刷の発祥の地のモニュメントのデザインをさせていただきまして、昨日がその除幕式でした。本木昌造という人は、それはもう多彩な人で、江戸時代の若い時にはオランダ通詞として活躍したり、明治になって造船や製鉄と建築をやったり、失職した武士のために私塾を開いたりして、なおかつ近代印刷の基礎をつくりあげた人で、よくまあ一人で激動の時代にあってそこまでいろんなことができるもんだと感心します。印刷は今でこそデジタルされましたが、ついこの前まで新聞でも何でもこの本木昌造がつくった活版印刷が主流だったんですね。いわば日本の近代化に必要だった革新的な技術の一翼を担っていたわけです。上野彦馬の写真術と同様、この印刷と写真という今の情報化社会の技術的な基礎をつくりあげた人なんですね。そのふたつがこの長崎でつくられたということは、長崎とまちの性格を象徴していると思います。もちろん上のほうでクドクド書いたように、日本の近代化というものを喜んでいいものかは別として、そうした歴史の重要なポイントが長崎であったということは間違いないことなのです。列強のアジアに対する植民地政策はアヘン戦争で大儲けをした後に鎖国日本にも襲いかかり、グラバーを長崎に派遣して、龍馬をはじめとしたいわゆる幕末の志士たちを利用して大量の武器弾薬を売りさばき、結果幕府を倒させて、あらかじめこっそりヨーロッパに留学させて洗脳していた志士によって明治政府をつくらせて、列強の思惑どおりの国に仕立て上げた。明治維新とは文明開化などとはほど遠い単なる列強の植民地政策でしかなかった。それはアフリカやインドや中東やオーストラリアや東南アジアや韓国や中国を一方的に植民地として支配していくセオリーをそのまま日本にあてはめていって、その後も韓国が国を二分させられることにもなるし、ベトナムにもあの惨劇が繰り広げられる。いま沖縄の普天間基地移設問題でごたごたしているのも、歴史をたどれば明治維新での西欧列強との関係から始まったものです。普天間に限らず、日本にはびっくりするほどの米軍基地があるけど、そうまでして日本は……あ、やめときましょうね(笑)。ま、なにしろ幕末の長崎はそうした歴史のターニングポイントだったところで、そのひとつが今回のモニュメントなわけです。単なる龍馬ブームにあやかるモニュメントではありませんのでご理解ください。おそらく私が死んだ後まで残っていくものです。そうしたものを作ることができて光栄に思います。そのころには日本でも本当の「近代」の意味がきちんと認識されるでしょう。除幕式では市長やなんだか偉い人たちにまじってご挨拶のスピーチや除幕の紐を引いたりして、写真を撮ることができなかったので、こんど行ったときに写真も撮って紹介しますね。自分で言うのもなんですが、なかなかオシャレなモニュメントになりましたよ(笑)。