ギャルリーコクトー・セカンドステージ

さて、先日もお知らせしましたように、いよいよギャルリーコクトー・セカンドステージが、今度の日曜日からスタートです。
堀内健二展 アートで宇宙を語る
7月12日(日)〜8月1日(土)
まずは気持ちをできるだけフラットにして見せていただこうと思います。いや、べつにそうじゃなくてもいいんでしょうけど、でも、何か大切なものを見逃さないようにと思うのです。世間のすったもんだに翻弄されていると、あたりまえのことがあたりまえに見えなくなったりします。言い換えれば変なことが普通に見えたりします。でもきっとそれはとんでもない「フツー」なんですよね。大切なことって何だろう。そんな素朴な疑問を自分に投げかけ続けられるようになりたいと思います。アートなんて見なきゃ見ないで生きていける。もちろんそうだし、そうやって生きて死んでいく人のほうが現代社会は圧倒的に多い。昔は生活とアートは一体だったし、それは宗教も政治も祭りもアートも境目が分からないほどだった。この世とあの世の境目ももう少しぼやけていた。そうしたぼやけ具合がちょうどよかった。それが科学なんてものが出てきて、やたらものごとを疑ってかかるような了見の狭いものの見方が出てきたばっかりに、世界はとても薄っぺらになってしまった。いや、世界が薄っぺらになったのではなく、薄っぺらにしか見ないようになった。「この科学の時代に」と、人々はいろんな大切なものを葬り去ってきた。わけわかんないもの、ぼやけてはっきりわからないものにふたをしつづけてきた。だから実際の世界の奥深さとのギャップが人々を苦しめている…と思う。だからアートはその世界のほんとうの厚みを取り戻す窓なんじゃないかと思うんです。今の薄っぺらい世界にぽっかり穴をあけて、ほんとの世界の姿を見せてくれるものなんじゃないかと。でもその窓は覗けば見れるってもんじゃない。ちゃんと対話をしないと見えてこない。それは世界に向かって対話をし、自分にも向かって対話をする。自分から声をかけ、外からの声に耳を澄ます。ちゃんと受け入れて、ちゃんと発信する。そうしたら世界のほんとうの姿が見えてくるんじゃないかと。アートとはそんな双方向の窓口のようなものではないのかなと思うのです。「この作家は何を言いたいんだろう」とか「これを作るのにどんなに苦労したんだろう」なんて考える必要はないし、そんなこと余計なお世話なんです。作家が問題ではない。作家がつくる作品。もっと言えば、作家が作る作品の背後にあるものが大切なんだろうと思うのです。もし、自分のことばかりを言い放つ作品であるならば、それは大した作品ではないどころか、ゲロです。あなたは他人のゲロ見たいですか?(笑)とくに20世紀後半に出てきた現代アートは、そうした醜悪なゲロの黄金時代でした。ゲロが汚ければ汚いほど勲章をもらえた時代でした。残念ながら21世紀の今でもそんな風潮は残っています。なぜかと言うと、アートが時代を映し出してきたからです。というより時代を映し出すのがアートだとされてしまったからです。でもそんなことにふらふらと揺るがない視点をもつ作家の作品は、時代とは関係なく美しいと思います。綺麗とは違います。もちろんカワイイでもありません。美しいです。世界のほんとうの姿がその作品との対話を通じて見えたとき、そこに美が現われるのだと思います。あと何十年何百年かしたら、きっとアートは無名性の時代を取り戻すでしょう。人類がそれまで生きていたらの話ですが。
このあいだから、私のきらいな「アート」という言葉を仕方なしに使っています。「アート」って何よ、と今でも思います。ちゃんと美術って言えよ、とも思います。でも世間では美術をアートと呼ぶほうが多勢になってるようで、それでも美術って言い方に固執するのもバカみたいなので、若い人にも言葉が自然に伝わるように、あえて、違和感をビシビシ感じつつも、アートって書いてます。ほんとは美術って言いたい。高校では美術部だったし、大学でも美術科だったし、美術手帖を読んだりもしてた。けっしてアート部じゃないし、アート科なんてないし、アートなんとかっていう雑誌は…あるか…。なにしろアートというと現代アートを指しているようで、なんかバッタもん臭い。どうにかならんのだろうか、アートっていう軽薄な感じ。なんかX-JAPANとかGLAYみたいな歌謡曲をロックと言ってしまう気恥ずかしさみたいな(笑)。
ま、そういうことで、ギャルリーコクトー・セカンドステージは、筋金入りのアート…いや、美術作品でガンガンやっていきます。ギャルリーコクトーであなたをとりまく世界と対話してください。