ふたたび極北のカフェ

わらわらとデザインの仕事がやってきて、いくつかは丁重にお断りするという事態。以前のように寝ずにやればできないこともないんだけど、もうそんな無理はしないようにした。そのぶん今請けている仕事をきっちりとやりとげて、あとはカフェ豆オープンに向けて時間を割こうと思う。ドストエフスキー「地下生活者の手記」の中に「1杯の茶のためなら、世界など滅びていい」というすごいセリフが出てくる。人によって読み方は様々だろうけど、今の自分にとってものすごく衝撃的なセリフだ。多くの誤解を百も承知で言ってしまえば、カフェ豆はそんな空間にしたい。というか、そんな空間ができるかどうかをやってみることが今の自分の一番の興味だ。これは客寄せのためのキャッチコピーではなく、これでけっこう辛辣に世界観を言い当てていると思う。滅びていいとまで思う世界とは何か。世界の消滅と引き換えることのできる一杯のお茶…。世界が滅びるとは同時に自身も滅びるということなのだろうが、それでもこう言い切ってしまうことの意味…意図…運命との対話…他者…そんなことを思いめぐらす中で、カフェ豆の最初のコンセプトだった「極北のカフェ」をもう一度イメージしなおしてみる。極北のカフェこそ「1杯の茶のためなら、世界など滅びていい」と思う人間が集まってくる場所だ。といっても究極の享楽主義者のたまり場というわけではない。世界を引き換えにできるほど大切なものを求める人間が集う場所と言ったら言い過ぎだろうか。できるできないはともかく、カフェ豆のベクトルが極北を指していることに変わりはない。
カフェ豆ミュージックNo.20はシューベルト

Symphony No 5-9

Symphony No 5-9

これをお店で鳴らすことはめったにないだろうけど、シューベルトの未完成はクラシック音痴の私でもなぜか惹かれる曲なのです。わかりやすいのかな?